療育 のぞみ園20年(中)

東京での音楽療法の経験をもとに奄美に帰島し、のぞみ園開設当初から共に歩んできた大山さん

子ども達の表情に変化

 帰島直後は療育研の活動にボランティアとして参加した大山さん。東京での音楽療法の経験に注目した向井さんの働きかけもあり、のぞみ園に就職して開園前の準備から携わった。

 「まだ市による改修前で、外観と異なり建物内部の方は、とても保育所だったところとは思えない廃屋のような状態だった。建物の中に入り、すぐに『うわー』と叫んだことを今でも覚えている。まずゴミ出しなど掃除から始めた。壁紙の張り替え、ペンキ塗りも自分たちで行い、子どもたちが喜ぶようアニメのキャラクターも描いた。職員の家族も参加し総動員で、毎日ほこりだらけになりながら取り組んだ」

 年末から始めた準備作業は、途中から専門業者が加わったものの開園直前の3月まで続いた。大変だったのがワックスの除去だ。肢体不自由児などが滑る危険性からワックスをはがす必要があり、かなり時間がかかったという。

 ▽保護者の不満

 障がい児をもつ親の願いとして実現した、のぞみ園での通園事業。1~6歳までの未就学児15人の受け入れでスタートした。一日の受け入れ数は5人程度、複数のグループに分けての療育だ。当時は脳性まひを中心にした肢体不自由児の通園が多くを占めた。大山さんら職員は、子どもたちの緊張を緩め、正しい動作を習得するための遊びを取り入れた。階段の上り下りなど運動のほか、足の裏から刺激を与え触覚に訴えるため裸足になってもらい園庭での砂遊びも取り入れた。ところが保護者らに十分に理解されなかった。

 この頃は母子通園だ。一般的な保育所なら保護者は送迎のみで、保育の様子を保護者が見ることはない。のぞみ園では保護者も子どもと一緒に施設内に滞在し、わが子の保育の様子を見守った。母子通園を重ねるにつれ母親から大山さんら職員は、こんな指摘を受けた。「歩けない、しゃべれないわが子の症状を改善してくれる、治してくれると思っていたのに。保育士は子どもと遊んでばっかり。リハビリなどしてくれないの」。母親らの不満の声は、とげのように大山さんの胸に突き刺さった。

 「当時はまだ療育という言葉が正しく理解されず、治療と混同された。母子通園の期待が失望に変わり、のぞみ園に行くのを嫌がるお母さんも出るようになった。そんな現状を前に毎日落ち込んでばかりいた」。通園する子どもと母親を出迎えた際、大山さんはこんな言葉を母親から浴びせられたこともあったという。「保育士の明るい笑顔、それが嫌。私たちは苦しんでいるのに明るく接してくる態度が癇に障る」。大山さんの表情からしだいに笑顔が消え、東京での経験という自信も失いかけた。

 大山さんを始め職員の年齢は30歳代。母親らも30~40歳代で職員と年齢が近いため、不平不満を口にしやすかったのかもしれない。「療育内容は、こうあってほしい。私たちが求めることをやってくれるのが当たり前。なぜできないのか」という要望が次々と寄せられた。「最初の頃は療育に対しお母さん方の理解が得られず、大変だったという思い出しかない。開園から5年間は毎日が手探りの試行錯誤で、暗闇の中でもがいてばかりのようだった。最初の1期生の卒園を迎えたとき、ワーワーと泣いた」。

 ▽救い

 苦しみや悩みの連続。開園から数年間の記憶を失うほど大山さんは精神的にも肉体的にも追い詰められた。さらに重くのしかかったのが園の運営の困難さだ。開園当初は事業団からの借金で運営費などを賄うほど厳しい資金繰りが続いた。保護者らが抱いた感情により母子通園の利用が思うように広がらない。利用が少ないと当然、収入が限られ利益を生み出せない。赤字続きの園運営と今後の展望が見えない状態に、事業団の本部は園存続に難色を示すまでになった。大山さんら職員は「他に行き場がない奄美の子どもたちのためにも、のぞみ園での療育を続けさせてほしい」と本部側に懇願した。

 のぞみ園での母子通園。保護者が求める症状の改善は目に見えた成果を生み出せなくても子どもたちの表情が変化するようになった。障がいに対する周囲の視線が気になり、自宅でひきこもってばかりいた親と子。他との交流がない孤立を招いていた。それが母子通園を重ねることで、子どもたちは母親以外とも触れ合う機会になった。迎える保育士、共に過ごす他の親子。一緒に歌ったり、運動などの遊びを通し共感しあったのは、やはり子ども同士だ。

 「子どもたちはすぐに打ち解け仲良くなり、どの子も表情が明るくなった。そんな子どもたちの表情の変化が救いだった」。大山さんら職員は子どもたちから、今後も療育を続けていこう、療育の場を提供していこうという勇気をもらった。

 新たな取り組みも始めた。給食だ。「弁当持参で通園してもらったが、子どもたちの偏食がひどかった。このままでは成長に影響する。みんなで同じメニューを食べる栄養バランスのとれた給食が一番だと思った」。

 最初の頃は保護者の協力により春日保育所の給食を運ぶ方法がとられたが、1999年から、のぞみ園内で給食を作るようになった。保護者の一人が担当した。しかし献立、買い物、調理、会計をすべて一人でやっていたため負担が大きい。継続には必要との判断から調理員をパートで雇用し、調理のみを任せ献立、買い物、会計は職員が行うようになった。

 その後保護者会での運営など給食の運営方法は変遷をたどったが、現在も継続され、子どもたちの成長に合わせて栄養管理されたメニューが提供されている。