伊仙町教委、面縄貝塚・総括報告書

未公開だった面縄第2貝塚初調査・出土品=1930(昭和5)年当時=の写真も(面縄貝塚総括報告書)

面縄貝塚発掘調査
面縄第1貝塚の範囲確認調査=2014年3月(伊仙町教委提供)

「奄美諸島代表する遺跡」
国史跡指定を具申へ 未公開資料も収集し登載

 【徳之島】伊仙町教育委員会は2007年度―15年度の9年計画で進めた重要遺跡「面縄貝塚」=同町面縄=の範囲確認調査結果を含む「総括報告書」を刊行。それによると、従来の第1―第4貝塚を含む遺跡範囲は約6㌶と大幅に拡大。土器編年の構築にも貢献するなどした遺跡の存続期間は約7000年前の貝塚時代前1期(縄文時代早・前期)~グスク時代(中世並行期、15世紀)に及ぶと確定。奄美諸島を代表する遺跡としての国指定史跡の年度内実現を目指す。

 「面縄貝塚」(第1貝塚)は1928(昭和3)年に発見された。九学会連合などによる群島では最も早い学術調査がなされ、県や町教委の行政調査などを数次にわたった。琉球列島の土器編年上重要な兼久式、面縄東洞式、面縄西洞式、面縄前庭式土器の標識遺跡と広く知られる。住居跡や集石遺構、石棺墓(人骨)、貝塚なども発見され、遺跡が居住域と墓域、貝塚で構成されていることなどが明らかになっていた。

 07年度からの遺跡範囲および内容把握調査では、遺跡(遺物包含層)の範囲が、面縄小学校敷地と同周辺部一帯の約6㌶に拡大することを確認。町教委の新里亮人学芸員によると、特に面縄小校庭やその周辺では「貝塚時代前4期(縄文時代後期並行期)の良好な遺構面が残存していることが分かり、本遺跡の中心となる時代を特定できた」。

 また、面縄第1貝塚からは各時代の土器とともに人骨や貝製品も検出し、「集落と墓地が地点を分けて併存していた可能性が高いことが示された」。さらに時代とともに遺跡が海岸部砂丘に広がっていったことも確認した。

 同町埋蔵文化財発掘調査報告書(16)「面縄貝塚総括報告書」はA5版の242㌻。56(昭和31)年ごろの九学会連合会による第2貝塚発掘調査の模様の写真など未公開資料も精力的に収集して登載。琉球列島での歴史的位置では「個性豊かな貝塚時代観を描くに当たって歴史的に重要で、奄美諸島を代表する遺跡」と強調。ほか特徴として第1貝塚発見者の大村行信氏(当時・面縄小訓導)など先人たちの足跡も紹介している。

 面縄貝塚統括報告書は、同町内の「徳之島カムィヤキ陶器窯跡」などに次ぐ国指定史跡に向けたもの。地権者同意など手続きを進め年度内の指定実現を目指すという。