エルフィン 妖精(中)

輪内保育所とのぞみ園から交付された二つの保育証書を手にする幸輝さん。ここでの保育と療育が成長の原点となっている

「リズム、発達尊重して」

2歳になったばかりの幸輝さんを抱っこして医師は穏やかな表情で須美子さんに言った。「お母さん、ウィリアムズだよ」「発達が遅いけど慌てて心臓血管系の手術をする必要はない。徐々に成長していくから様子を見ていきましょう」。

ウィリアムズ症候群は、同協会によると、1万人に1人の割合で発症すると言われている。これまでの研究により、第7染色体の欠失がこの状態の原因になることがわかっている。心臓や血管の障害、知的や体の発育の遅れなどさまざまな症状を引き起こすとされている。

「周りの子どもと比較する必要はない」「この子のリズム、発達を尊重して」――。医師の母子を包み込むような優しい口調の説明。須美子さんの不安は解消されそうだった。だが、この発言が自然に口をついた。「先生、よくわかりました。でもシマの医療環境で育てることができるのでしょうか。都会にいた方がいいのではないですか」。

医師はあらかじめ母子が暮らす奄美大島の環境を調べていたのだろう。「何を言っているのお母さん。奄美大島は自然が豊かで、ゆったりとした風土はこの子のリズムに適していますよ。恵まれた環境じゃないですか」。

須美子さんにとって力強い言葉だった。だが東京女子医大の建物から離れると、しだいに脱力感に襲われた。徹底的に追求しなければ気が収まらなかった幸輝さんの症状の原因。それが判明したものの完治する方法はない。治療は症状の緩和であり、成長に合わせて長期を要するだろう。今後もさらに医療費などの負担が重くのしかかる。

「自分は病気のことは詳しく知らない。でも一生懸命仕事をしてお金を稼ぎ、これからも幸輝の治療のため頑張るから」と言ってくれた夫。そんな夫の理解が大きな支えだが、目の前で流れるように動く電車を見て須美子さんは心が揺れた。「もういいか…。これ以上夫に負担をかけることはできない」。母子で最悪の選択をする可能性もあった。

迷いながらも須美子さんは夫に連絡を入れた。「ごめん。シマには帰れんかも」。夫は言った。「何を言っているの。早く帰っておいで」。夫の励ましが母子の背中を押した。奄美空港に到着すると、飛行機の到着時間を知らせなかったのに、そこには夫の姿があった。「あんた一人でこの子をつくり生んだのではない。自分にも幸輝を育てる責任がある」。須美子さんから迷いが消えた。再び「ごめん」と謝った。東京からの「ごめん」とは異なり、そこには夫に甘えていこうという気持ちを込めた。

▽保育所へ

子育てと医療費の負担。須美子さんはこれまで通り看護師の仕事を続けながら夫と協力していくことを選択。そのためには幸輝さんを保育施設に預けなければならない。自宅に近い公立の輪内保育所が障がい児の受け入れもしていることをパンフレットで知った。

申し込むため市役所の担当課を訪ねた。障がい児を新たに受け入れるには保育士の増員など態勢の強化が必要だからだろうか。担当者はすぐの受け入れに難色を示した。須美子さんはあきらめることができなかった。人事異動で担当者が交代したことを知り、再び申し込んだ。新しい担当者は親身になって対応し必要性を理解、保育士の増員を経て輪内保育所への入所が決定した。

須美子さんは自宅、そして保育所にも近い病院に就労。幸輝さんの受け入れで他の子どもたちへの影響がないか気になり、昼食時間を利用して様子を見に行った。ちょうど子どもたちが室内から外に出るところだった。

ウィリアムズ症候群の特徴の一つ関節の発達の遅れから歩行機能に支障が出ていた幸輝さん。同じクラスの園児たちは2階から走るようにして階段を下りていく。幸輝さんは後ろ向きで四つんばいになりながら一歩ずつの移動だ。ゆっくりと。そんな幸輝さんを階段の下で待ち、外出できるよう靴を履かせる園児の姿があった。遊具・ジャングルジムでの遊びでは幸輝さんも一緒だった。「こーき、こーき」の声を受けながら、他の園児たちのようにジャングルジムを上れなくても、幸輝さんはつかみ立ちし横歩きで応じた。

うれしそうな表情で園児の一員として、みんと遊んでいる幸輝さん。支えてくれる友達の存在に須美子さんの目から涙があふれた。保育所で出会った幸輝さんの最初の友達。この子たちとは同じ校区の小学校に一緒に通い、その後成長して別々の進路になっても成人式の際は、この子たちが幸輝さんを誘うなど今なお交流が続いている。

▽並行通園

保育所に通うようになり幸輝さんの成長を実感し始めた3~4歳の頃。須美子さんはまだ開設されたばかりののぞみ園の存在を知った。「この子に合わせた保育をやってもらえるのなら」。そう願い輪内保育所との並行通園の形で利用した。

「幸輝は運動発達の遅れで、歩くのが遅かったが、とても絵が上手だったのを覚えている。カルシウム吸収の関係で歯の隙間が大きく言葉を発しにくかったのに、それでも一生懸命話しかけてきた。また、お母さんがしっかりと子育てしていたのでしょう。幸輝はとても礼儀正しく、『先生さよなら』『ありがとう』と言えた」「開設当初で私たちも未熟だった頃。何もしてあげることができなかったのに、幸輝のお母さんには今でも会うたびに感謝していただき、こちらが恐縮している」。のぞみ園で幸輝さんの療育に関わった大山周子さんは振り返った。

幸輝さんは午前中のぞみ園を利用。昼食後に須美子さんが迎えに来て、午後からは輪内保育所に通った。幸輝さんには二つの保育証書がある。いずれも1997年3月に交付された輪内保育所と、のぞみ園からのもの。この保育証書は大切な宝物として今でも保管されている。