車椅子バスケでリオ内定

埼玉ライオンズでキャプテンを務める永田さん=埼玉県さいたま市の埼玉障害者交流センター

永田さん 3D
車椅子バスケットのほか、日常生活についても語る永田さん=千葉県松戸市和名ヶ谷スポーツセンター

奄美二世の永田裕幸さん
筋トレとチーム(埼玉ライオンズ)で練習づけ

 【東京】先月22日、9月7日から18日まで開催されるリオパラリンピック車椅子バスケットボールの日本代表に、奄美二世の永田裕幸さん(31)が内定した。永田さんの父親は奄美市笠利町の手花部、母親も名瀬出身で、永田さんも4歳まで奄美で育っている。

 永田さんが車いす生活になったのは23歳のときだ。冬の群馬のスキー場で、大好きなスノーボードで楽しんでいたときにジャンプで失敗。背中から落ち、足が全く動かなかった。背骨骨折、神経切断。入院して3週間後、医者に「生涯、歩けませんよ」と宣告された。

 当初は、絶望のふちに突き落とされ、ショックで「死んだほうが…」と自暴自棄になっていた。ところが、埼玉の自宅近くの国立障害者リハビリテーションセンターにリハビリで通うようになり、顔見知りができるようになった。すぐに仲良くなるようなタイプではないが、友達ができたことで気持ちが変わっていった。

 同センターにはいろいろな障がいを持つ人たちが通所している。自分は上半身は動かせる。言葉もしゃべれる。そして生きている。「なんだ、自分の障がいなんか軽いほうじゃないか。なったもんはしょうがない。へこむことないな」と、前向きになった。しかし、会社への復帰はかなわなかった。車いす移動ができるエレベーターが設置されていなかったからだ。

 一年間は職業リハビリセンターに通い、パソコン技術を習得した。そこへ障がい者を雇用したいという現在の会社の社長が見学にきた。スポーツ好きな社長は永田さんと出会い、即採用した。

 その頃からリハビリの一環で車椅子バスケを始めたが、当初はバスケ車の扱いに苦労した。だが、次第にスポーツ好きの面が顔をのぞかせるように。「パラリンピックに出る」と目標を立て、練習に没頭した。

 地元の若い車椅子バスケットチーム「埼玉ライオンズ」に入会。4年前からはキャプテンを務めている。ロンドンパラリンピックは一次選考で落ちた。今は「自分のことだけではなく、チーム全体を見るように意識が変わった」。

 8月の招集までは筋トレやチーム練習でひたすらレベルアップに努める予定。

 今度、奄美に帰るときには「日常車だけでなく、バスケ車も持参して島の子どもたちにプレーを見せてあげたい」と語った。