南西諸島で初 完形の銅鏡発見

手久津久地区中増遺跡で出土した完形の湖州円鏡(銅鏡)

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銅鏡は人骨の腰骨のあたりで見つかった=提供写真=

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2006年の調査で出土し、銅鋺の破片と確認された銅片

銅鋺破片も 移入ルート不明、科学調査へ
喜界町・中増遺跡発掘で

 喜界町の畑地帯総合整備事業における手久津久地区中増遺跡の発掘調査で、南西諸島では初めて中国産とみられる完形の湖州円鏡(銅鏡)が見つかった。それに伴い、2006年の調査で発見された銅片(城久遺跡群山田半田遺跡土坑墓2号)も佐波理(響銅)製の銅鋺の破片であることが発覚。いずれも南西諸島では初確認。どちらも当時は貴重な品だったこともあり、同町埋蔵文化財センターでは「どういう経緯で喜界島にわたってきたのかなど、わからないことはばかり。今後、より詳しく科学調査を進めていきたい」としている。

 中増遺跡で見つかった銅鏡(直径11・5㌢、厚み1・5~2㍉)は15年5月に伸展葬の土坑墓から出土したもの。同年9月4日の実見(京都国立博物館名誉館員の久保智康氏)により、銅鏡は12世紀代の湖州円鏡(中国産)と推測。16日には成分分析(蛍光X線分析)を実施した結果、出土事例の極めて少ない貴重な銅鏡であることが確認されたという。

 湖州円鏡の出土事例をみると、12世紀代に経塚=きょうづか=から出土する傾向が高く、南西諸島において完形品の出土事例はなかった。破片については、沖縄県の越来グスク遺跡、今帰仁グスク遺跡、フルスト原遺跡で計5点出土、同県稲福遺跡では六花鏡完形品1点が出土しているという。手久津久地内の遺跡からはほかにも銅鏡の破片が数点確認されており、奄美群島内で銅鏡の完成品が出土したのは今回が初めてとなった。

 出土した人骨も通常みられる伸展葬(足を伸ばした状態で埋葬)とは異なり、右手が背中を回り左手と重なるという稀な埋葬事例。11世紀前半から12世紀後半の熟年の女性であるとされ、銅鏡は腰骨のあたりで見つかったという。同センターでは、銅鏡が納められていたことと合わせて、「埋葬者がどういった人物なのかについては、遺跡全体の性格を考えるうえで重要な要素になる」としている。

 銅鋺は、銅鏡とともにこれまで同町内で出土したほかの銅製品とともに専門家が確認した結果発覚したもの。蛍光X線分析を行った結果、佐波理と呼ばれる銅鋺と同定された。見つかった銅鋺の破片は、口縁部の特徴などから平安時代前半(8世紀末~10世紀頃)のものとされ、これまでの出土事例をみると、公的機関やその周辺からの出土が目立つとされた貴重な金属容器。同センター係長の澄田直敏さんは「銅鋺とともに見つかったほかの副葬品は12世紀代のものと考えられる白磁合子などが出土しているので、喜界島に持ち込まれた時期や意味はわからない。ただ、位の高い人が使う器なので、誰でも持てるものではなかったはず」と語った。

 澄田さんは「まだまだわからないことばかり。銅鏡を包んでいたと思われる布の繊維(植物性)もさらに深く分析していきたい。また、人骨も掘り下げることでわかることがあるはず。今後も分析を進め、最終的にはセンターに展示する予定」とした。

 喜界島の遺跡から銅製品の破片がいくつも出土したことについて久保氏は、「琉球のグスク時代の状況とほとんど同じ。沖縄の中核的グスクを発掘調査すると、金属製品、とりわけ銅製品の破片が多数出土する」と指摘。一方、銅鋺については、「喜界島では極めて貴重な舶戴品だったと思われ、城久遺跡群を中心に、高麗のカムィ焼が多数出土することと呼応して、高麗との物質的あるいは人的交流を想像させる小破片と言える」としている。

 今回出土した銅鏡と銅鋺は、13日から同センターで展示される。期間は31日まで。時間は午前9時から午後5時まで。