母間騒動200周年記念

住民たちが熱演した手作りの島口劇「母間騒動千年物語」=16日、母間小体育館

「母間騒動」の背景を探り合ったシンポジウム

「母間魂・正直」を後世へ
シンポや方言劇熱演
徳之島町

【徳之島】「母間騒動200周年記念式典・シンポジウム」(同記念実行委員会主催)が16日、徳之島町の母間小学校体育館であった。気象災害・疫病・搾取の三重苦にあえいだ村人たちが一斉蜂起した歴史的事件を俯瞰した郷土史家の基調講演や、「受け継ごう先人達の『正義と勇気』、守ろう伝統の『母間正直』」をテーマにしたシンポジウム、住民約45人の島口劇「母間騒動千年物語」を通じ、先人たちの気概の伝承を誓い合った。

校区住民や来賓など関係者約210人が参加し、母間小3年~6年生の「棒踊り」のオープニングステージで開会。赤崎冨千郎実行委員長(母間校区振興会会長)は「先人が築いた母間魂を時代に適合させ、母間の歴史を切り開こう。自然を愛し・人を愛し・ともに支え合い、これからの先の千年に向け『母間に暮らして良かった』といえる地域づくりを」とアピールした。

まず、えらぶ郷土研究会会長の先田光演氏が演題「郷土史家から見た『母間騒動』」で基調講演。「入作地の耕作は共同作業だった。不当に高い出米(供出米)について論議(ドンギ)し、本掟(区長・喜玖山)が嘆願書を作成。鹿児島への越訴、舟の漕ぎ手も決めていたのでは」。黒糖圧政下の「犬田布騒動」(1864年)とは違い「用意周到に集落のみんなで戦った。遠島された人の家族は集落のみんなで守った」。その結束力の背景には「八月踊りなど年中行事がシマ・貧しい村落共同体をまとめたのでは」とも考察した。

シンポには母間校区振興会顧問の寶田辰巳氏をコーディネーターに先田氏、津波=つは=高志・琉球大学名誉教授、元徳之島町郷土資料館主幹・米田博久氏がパルリストに登壇。当時の言語(意思疎通・通訳)や板付け舟の操船技術者、獄死した越訴住民の埋葬―など研究を含め厚みを持たせる必要性。当時の支配体系や台風による甚大な被害、疱瘡=ほうそう=(天然痘)流行による人口の激減など苦境下の島の様子―など論考も交え討議。

寶田氏はシンポの締めで、「(喜玖山らは)島役人の不正・不信に堪えられず、母間正直・正義を貫く気持ちでいわば〝特攻隊〟となって七島灘を越えた。『やむにやまれぬ大和魂』(吉田松陰)ならぬ『―母間魂』があったのでは」との仮説も紹介した。

島口劇「母間騒動千年物語」は、歴史的価値を総括し「子孫や島が永遠に栄えるように」との未来へのメッセージも込めて手作り。母間の風土的精神の源流に焦点を当てながら、母間小のPTA・職員・児童らが、①発端~葛藤②決行~解決③現代~未来―の3場面(幕)で熱演しアピール。絶賛の拍手が送られた。

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【母間騒動】1816(文化13)年5月、母間村の人々が轟木村に持っていた田地(入作説も)に対する島役人の不当に高い供出米(臨時負担米)要求に、母間村の本掟・喜玖山が抗議談判。だが聞き入れられず、亀津の代官所に直訴するも「筋違いの訴え」と即日入牢させられる。

これに激こうした母間村の人々630人余は、鉄砲・竹やり・魚突きなどを手に代官所を襲って喜玖山を救出する。翌日夜、喜玖山を先頭に村人15人が鹿児島の藩庁に直訴するため板付け舟で出帆、重罪覚悟の決死行で越訴する。入牢3年の沙汰(裁定)に服した後、6人は無罪で帰島。喜玖山ら8人は翌年七島(トカラ列島)遠島となり、残る1人は獄死したと伝えられている。