白糖工場跡を一般公開

発掘されたレンガづくりの煙突や水槽が一般公開された(瀬戸内町久慈)

煙突やボイラー用水槽など発掘
瀬戸内町久慈で説明会
県埋文センター「産業化の広がりの実証」

県立埋蔵文化財センター(福山德治所長)は22日、瀬戸内町久慈の「久慈白糖工場跡」で現地説明会を開き、発掘調査で出土したレンガづくりの煙突やボイラー用水槽などの遺跡を公開した。当時の白糖製造の歴史に親しもうと、町内外から多くの見学者が訪れた。

調査は15年度からスタートした県「かごしま近代化遺産調査事業」の一環。これまで、薩英戦争砲台跡(南大隅町根占)、敷根火薬製造所跡(霧島市)の文化遺産調査を実施。同地での本格的な研究発掘は初めてで、同センターが今年度から調査を進めていた。

江戸時代末期、重要財源だった黒糖の価格下落を受け、薩摩藩は主要産地である奄美大島内での白糖製造を計画。幕末から明治初期にかけて、島内4カ所(龍郷町瀬留、奄美市名瀬金久町、宇検村須古、瀬戸内町久慈)に工場を建設したとされている。

建設にあたっては、建築・機械技師のウォートルス、白糖製造技師のマッキンタイラーが来島。欧米の蒸気機関を用いた当時の最新技術を取り入れたこの計画は、日本近代化の先駆けとされている。

1867(慶応3)~71(明治4)年まで稼働した久慈工場は、建物面積2430平方㍍、レンガづくりで2階建て。敷地内には煙突が7本林立し、煙突高さは最高36㍍を誇る規模だったという。

説明会では、発掘現場で数日前に発見したという、方形1・1~1・5㍍の「ボイラー用水槽」、直径1・5㍍の「煙突跡」などを公開。いずれもレンガづくりで、レンガの接着と整形に用いたと考えられる「しっくい」が多く見られたことから、当時の最新工法との考えを示した。

そのほか、同工場について同センター職員は、▽白糖の積み出し港が近い▽(当時)大きな集落があり、労働力確保が容易▽周囲の山から薪が調達しやすい―など建設理由を解説。「台風災害、稼働維持の困難など5年で閉鎖したが、上海への輸出実績がある重要産業地。(調査は)近代史を研究する上で大きな意味を持つ」との言葉に見学者は耳を傾けた。

福山所長は「奄美を含め、県内で産業化の波が広がっていたことの実証につながる」と述べ、引き続き調査・研究を進める方針。

久慈集落(58世帯120人)の武田政文区長は「これまで語り継がれていた工場の価値が見直されてうれしく思う。調査には出来る限り協力したい」と語った。