我那覇美奈さんインタビュー

この歳になって歌うことが楽しくなった、と笑顔で話す我那覇さん=東京・渋谷の奄美料理店「六調」で
リウマチ疾患啓発キャンペーンに自らが制作した「With A Wish」で全国に勇気の歌を広げようと抱負を語る我那覇さん

聴く人全てを癒したい!
奄美が教えてくれた歌の力で…

 奄美に縁のある年男、年女の意気込みを聞く企画の女性編。男性は「第?回日本レコード大賞」で『顧みて』で企画賞を獲得した永井龍雲さんが元日の紙面で、抱負を語ってくれた。今回登場するのは、我那覇美奈さん。名瀬で青春を過ごした彼女も、同賞で『あからんくん』に参加したアーティストとして企画賞に輝いている。果たして、12年ごとに訪れる年をどんな気持ちで迎えようとしているのか。

 奄美独特の「全国同窓会」に出席、一足早く年女を迎えた我那覇さん。久しぶりの同年代との出会いで大きなパワーをもらったようだ。

 「実は、昨年(2015年)のお正月に干支の人たちが12年ごとに集う〝全国同窓会〟に出席したんです。早生まれなので、1980年生まれの人たちに交じって大騒ぎ。会の中心になっているのは島の人たちで、アルバムを作ったり、連絡を密に取ってくれたり、大活躍。ちょうど働き盛りで力もみなぎっている。太ったり、髪の毛が薄くなったり見掛けも変わったりしてますが、会った瞬間に、〝おお~〟って感じであの頃に戻れるじゃないですか(笑い)。懐かしい顔に囲まれて、本当に楽しかったなあ。奄美観光ホテルに、金久中の同窓生が集結、他の中学校の卒業生らと交ざって、屋仁川に繰り出し、延々と飲みましたね。島ならではの風習でしょうけれど、また12年後にあると思うとわくわくしますね。今回もこのように取材をしてもらいますし、年女を迎えるに当たって満足する一年でした。伊勢正三さんが音楽を担当し、(南)こうせつさん、イルカさんたちと参加させてもらった『あからんくん』もレコ大で企画賞を頂きましたし、さまざまで出会いを重ねた年となったといえますね。なんといっても中外製薬さんから曲を依頼されたのは大きかった」

 来年以降デビュー20周年へ向けた動きが活発となってくる。そんな節目をいい雰囲気で飾れる手応えは十分のようだ。

 「中外製薬さんが、関節リウマチ疾患啓発キャンペーンとしてショートムービーを作ることが決まっていました。その話を、偶然私のプロデューサー・小林俊太郎さんがいただき〝我那覇だったら患者さんの中でも特に多い女性に響くはず〟と、白羽の矢が立ったのです。私の声の力、雰囲気がいいと採用してもらったようです。最初は病気がテーマとあって少し戸惑いもありました。私の周りにもそんな病気の人は見掛けないし、どちらかといえば元気だけでやって来ました(笑い)ので。でも、音楽の力を借りてリウマチがそれ以上悪化しないよう同年代の女性を意識して『With A Wish』を作ったのです。反響ですか? 患者さん本人もそうですが、家族の方たちから、とても勇気をもらっている、五感に響いて心が洗われる、なんて話を聞くにつけ、私自身も元気をもらってます。昨年10月に奄美の医師会で、歌ったことがきっかけで、リウマチのサロンをオープンすることに。歌の力をあらためて知らされました。17年は、この曲でパワフルに動き、回りも元気にしていくつもりですよ」

 そんな元気印の我那覇さんだが、故郷を後にして東京で勝負するに当たって、葛藤があった。

 「デビューしたての頃は、今思えば反発してたかな。たくさんの人に会ったけれど〝しっかりやんなきゃ〟と力んでました。いきがっていたわけではないんですけどね。島を出たんだから、島を捨てなければいけない、頼ってなくてもやれる、そんな気持ちもあったと思います。事実、当時所属していた事務所からは〝奄美を捨てろ〟みたいなことを言われたりもしました。芸能界にデビューしたんだから、そんなものだと理解もしていましたし若いし、自信もあったんでしょうね。1998年にシングル『桜のころ』でデビュー。それなりに手ごたえをつかんでいたけれど、ちょっと違うと思うように。そんな2003年に、奄美パークで行われた奄美のアーティストを集めてのイベント『夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュッ?』に出させていただいたのです。(元)ちとせさんや、(中)孝介さんに交じって私もステージに立ちました。その時に観客席から大きな声で〝おかえり~〟とやさしく声を掛けてくれたのがいまだに忘れられない。あんなにいきがっていたのに、その瞬間力が抜けましてね。ああ、奄美の人ってなんて優しいのだろう。〝甘えてもいいんだ、私も奄美でいいんだ〟とホッとしました。自分にとって奄美は特別な所だと、あらためて認識したわけです。その時、夜空には月が本当に奇麗に姿を現していましてね。翌年発表した『月の雫』は、そこから生まれた曲なんですよ」

 名瀬の港近くで青春時代を過ごした明るくて、負けん気の少女もくじけることがあった。そんなときに、自分を勇気づけよう眺めた風景がある。

 「大浜海岸の夕日ですね。今じゃ有名なスポットらしいですが、当時はそんなこと思ってもいなかった。でもつらいことに胸が痛んだ時などはよく出掛けましたね。手を伸ばせば届きそうな夕日や蛍光灯のような月に何度も激励されたものです」

 いいときが来ていると実感を込めて語る我那覇さん。大きな夢があるという。

 「ずばり〝我那フェス〟なんですよ(笑い)。たまにお笑い芸人さんたちジャンルの違う人たちとジョイントをしてます。それをもっと広めて一大フェスティバルにしたいんですよ。できれば奄美でね」

 姉御肌の雰囲気の一方で、少女のような天真爛漫さを漂わせる我那覇さん。人のために歌うことの尊さを知った彼女なら、決して夢だけでは終わらないだろう。その歌声は、聴く人を癒やし勇気をもたらすに違いない。
 (インタビュー写真・文=高田賢一)

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