徳之島町・富山丸戦没者慰霊祭

遺族団58人と地元関係者ら約百人が参列した第54回富山丸戦没者慰霊祭=21日、徳之島町亀徳

「戦争の悲劇繰り返さない」
涙で近況報告も

 【徳之島】太平洋戦争末期の1944(昭和19)年6月29日、沖縄に向けて航行中の徳之島町亀徳沖約3㌔で米潜水艦に撃沈され、乗組員・将兵3724人が犠牲となった輸送船「富山丸」。その第54回戦没者慰霊祭が21日、各県の遺族58人と地元関係者合わせ約100人が参列して亀徳「なごみの岬公園」であった。悲しみの海を見つめる慰霊塔を前に、涙で鎮魂の祈りを捧げ、不戦・恒久平和の誓いも新たにした。

 生還者の1人・三角光男氏(故人)が同岬に慰霊塔を建立し、「富山丸遺族会全国連合会」と地元徳之島町の連携で慰霊祭を続け半世紀。遺族組織としては全国有数の結束力が。子世代の高齢化も背景に、4年前の第50回慰霊祭を節目に全国連合組織は解散。同以降は、関東地区や高知、徳島、香川、愛媛、大分、熊本、宮崎、鹿児島各県単位の遺族会と地元徳之島町の主催で継続している。

 今年も、父や祖父たちが眠る海域での洋上慰霊祭(定期船上)も経て上陸、午後からの慰霊祭に臨んだ。追悼のことばで、高岡秀規徳之島町長は「戦争の悲惨さを風化させることなく、平和の尊さを子々孫々に語り継がねばならない。今後も各県遺族会と力を合わせて平穏で豊かな日本を守り、平和な世界を築くことを誓います」とも強調した。

 遺族会参拝団長の時任義文さん(76)=姶良市=は、「国内外で人の命がいとも簡単に失われる事件が後を絶たない。人にはそれぞれの考えや宗教、思想の違いはあるが、命が奪われ・絶たれることは絶対にあってはならない」。また「遺族会も高齢化が進むが、一人の小さな気持ちを大きな輪にし、戦争の悲劇を繰り返すことがないよう、声を大にして後世に呼びかけます」とも誓った。

 各地区・県遺族会単位で1人ひとりが白菊を献花。各代表が「まだ見ぬお父さん。母が、お父さんのもとへ旅立ちました。みんな元気で暮らしています、ご安心を」、「英霊のみなさんも経験のない(熊本)大地震に見舞われたが、ご加護によって生命に別条はなく、復興に一生懸命頑張っています」などと涙で近況を報告した。

 この後、慰霊塔建立と同遺族会育ての親の三角氏顕彰祭と、隣接の「疎開船武州丸遭難者の碑」への献花も行われた。