徳之島出身の義山さん主宰

徳之島での思い出や学生時代の苦労などを懐かしそうに語る、義山正夫さん

作品の前に立つ義山さん
精魂込めた作品の前に立つ、義山さん

20号の作品「稲妻」
20号の作品「稲妻」。下のブルーは八月踊りの浴衣、その上の土色は大島紬の泥、その上は奄美の人たちの情熱から色のヒントを得たという

参加型グループ展「世美展」

 

16人参加 鮮やかな色彩並ぶ

 

「島の自然や人が後押し」

 

 【東京】徳之島出身の義山正夫(画号・奄宮東世)さんが主宰する「第3回世美展」が、狛江(こまえ)市の泉の森会館(狛江市元和泉1―8―12)で3日から開催されている。同展には16人が参加。多くの人たちが、その鮮やかな色彩に足を止めている。

 「世美展」は参加型グループ展。絵のある暮らしの素晴らしさをみんなで共にしようとの思いから、徳之島・伊仙町出身の義山さんが2015年に発足した。義山さんは1940(昭和15)年生まれ。幼い頃から絵に親しみ、腕前は近所で評判だった。

 やがて終戦の混乱期、一家は徳之島から本土へ。「今だから話せますが、密航船で奄美大島まで行き、母船に乗り換え鹿児島湾にたどり着くまで1年かかりました」。宮崎の小学校時代に転機が訪れる。

 その頃の島の事情を知る沖縄出身の教師が担任になった。激励と助言を得た義山さんは、絵描きを夢見るように。その後、武蔵野美術大学に進んだものの、学費を稼ぐバイトの日々。住居にも困り、仲間と橋の下で暮らしたことも。「パン屋のおばさんに絵を消すためと言って、屑パンをもらっていた」ほどだったが、絵に傾ける情熱は失わなかった。

 再び転機が。70(昭和45)年に創立したアニメーションの会社「 スタジオロビン」が、「アルプスの少女ハイジ」「あらいぐまラスカル」(いずれもフジテレビ系)の彩画を担当。折からのカラーテレビ化もあり「寝る暇もないほど忙しく、80人の従業員を抱え生活は潤った」。そんな折、心筋梗塞で路上に倒れてしまう。64歳だった。

 だが、消防活動や経営者として地元で知られていた義山さんは、即座に大学病院に搬送され最高の医療を受ける。3度目の転機だった。70歳にして再び絵画の世界へ。今回も16点を出品。これまで描いた作品は500点にも上る。

 「あのときあの人に会わなかったら、今の僕はあっただろうか」。人に恵まれた義山さんは、青少年に対する絵画や長年の消防活動などが評価され、98(平成10)年に文部大臣表彰を受けている。「島出身だから頑張れました。島の自然や人たちが僕と、僕の絵を後押ししてくれましたよ」と、笑顔で労苦を封印した。

 「第3回世美展」は、午前10時から午後6時まで。9日の最終日は午後4時まで(問い合わせ先はTEL03―5497―5444=泉の森会館)。2018年の4月には個展を、10月2日からは「第4回世美展」が行われる。終戦直後、伊仙町で絵描きを目指した少年の情熱は、色あせることはない。