平成最後の夏 記憶の継承 それぞれの活動=1=

平成最後の夏 記憶の継承 それぞれの活動=1=

松夫佐江さん
松さんがまとめた戦争体験記録、エッセイ本、絵本

戦争時代の体験、記録に
松夫佐江さん 「歴史に学び未来へ」

終戦から73年、奄美群島の日本復帰から65年を迎える年。15日は終戦記念日、奄美各地でも戦没者慰霊祭が行われる。今夏は、平成最後の夏となる。当時を知る人々は年々少なくなっていく中、記憶の継承に向けてさまざまな活動を続けている人々や団体がある。その取り組み事例を追った。

奄美市名瀬に住む松夫佐江さん(旧姓・良)は、1927(昭和2)年生まれの91歳。松さんによると、父親の実家は伊仙町阿権にあった。教員だった父親の転勤で沖永良部島、奄美大島、徳之島で幼少期、小学校時代を過ごした。幼少期の話に水を向けると、言葉を選ぶようにして話し始めた。

幼少期に4年間、天城町の西阿木名で過ごした。「一つ年下の3歳の弟が病気で亡くなったり、悲しいこともたくさんあったが、記憶に一番残っているのは、西阿木名での暮らしですね」。

その当時、西阿木名は〝陸の孤島〟と言われるぐらい交通の不便な所だった。集落の中に田んぼがあって、田んぼの中に学校があった。山に囲まれた田んぼの道を父親と一緒に歩き、歌を教えてもらった。描いても描き切れないほどの思い出がある。

「人生は、いろんな悲しみも乗り越えていかなくてはならないけれど、そんなときに家族というものがいかに大切か、人の死がいかに人を悲しませるかということを4歳のころに体験した」

昭和19年に鹿児島高等家政女学校を卒業し、伊仙へ。米軍戦闘機の空襲が激しくなっていった。米軍攻撃に備えて年寄り、女性、子どもは「疎開させなさい」と役場の命令があった。父親が役場に呼ばれた。「教職員組合の家族は一般の人々に手本を示さなければならない」との役場職員の言う通りに決意、鹿児島への疎開準備が始まり、父親と祖母以外の家族が疎開することになった。

父親と祖母は「自分たちがここで最期を遂げていたら、戦争が終わった時には『骨を拾いに来なさい』というような話をしていた」。悲壮な使命感を帯びて古里を後にし、古仁屋港へ向かった。

母親ら家族は、古仁屋小学校の教室で寝泊まりして、鹿児島へ行く船を待った。「武洲丸」に乗船することになり、家族みんなの荷物を船に積み込み、後は並んで乗船を待つのみだった。しかし、乗船ストップがかかった。「これ以上は乗せられない。次の船を待つように」との内容の指示があったという。家族が「荷物はみんな船に乗っているのに、乗れなくてどうなるの」と聞くと、「国の命令を変えるわけにはいかない」と怒り口調で言われた。家族はしかたなく宿泊場所の古仁屋小学校教室に戻った。

その後、1週間ぐらい乗船に関する何の音沙汰もなかった。そしてうわさで「武洲丸は沈没したらしい」と聞いたという。松さんは当時の記憶をつづった記録に「このことを知った私たちは、只愕然とし言葉を失った」と記している。

疎開船「武洲丸」は、十島村中之島沖で、米国潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、疎開者148人らが犠牲となった。
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松さんは、自身の体験や歴史などを記録やエッセイ本などに記してきた。齢90歳を超えたが、絵画、クレヨンで風景画など描き、創作意欲旺盛だ。「歴史の転換期に生きてきた。良いことも悪いことも書き残さなくてはいけない」。

「新しい時代を生きるために必要なことは過去の歴史です。過去の歴史があって未来が出てくる。いきなり未来が出てくるわけではない。未来を生きるためには歴史を学ばなくてはいけない」。今を生きる人々が学び、知る大切さを強調した。(東江輝文)