4時代生きる

「大正」「昭和」「平成」「令和」へ

大正生まれの人は、「大正」「昭和」「平成」の3時代を生き抜き、5月1日からは新しい「令和」の時代を生きることになった。太平洋戦争後、奄美群島は日本から行政分離され、米軍の統治下に置かれ、日本復帰運動を経て、1953(昭和28)年に日本復帰が実現した。90歳代を迎えた男女2人にそれぞれ自身の歴史を振り返ってもらった。

若いころ島唄を唄うことが得意で、八月踊りや太鼓をたたくことが大好きだったという山田スマコさん

「新時代、健康第一に」
奄美市名瀬・山田スマコさん(92)

奄美市笠利町喜瀬出身の山田スマコさん(旧姓・山下)は1926(大正15)年10月生まれ。満92歳。新時代に期待することは何かと尋ねると、「健康が第一。新しい時代が来ても健康に気をつけ、転ばないように気をつけていきたい」「名瀬、奄美が活性化してくれれば良いと思う」と淡々と話した。

山田スマコさんの名前は、笠利町誌に記されている。「朝山笠利町長の推せんにより、東京奄美無形文化財会長・元田弥三郎氏、および、副会長・川畑清氏の計らいで、昭和45年8月、国立劇場『日本の民謡』に出演し、大好評を博した」「スマコの一族は唄好き。(中略)親類に当たる山田フデに師事し、日置、上村などのレコードで学び、現在のスマコの唄ができあがった」との内容が書かれている。

当時は40歳代後半。唄うことが得意だったという。「行く前は緊張した。しかし、会場でいすに座ったら緊張がとれた」と振り返った。
 「(島唄を吹き込んだ)大きなレコード盤と小さなレコード盤を作った。島唄は何でも好きだった。八月踊りを踊り、太鼓をたたくことも大好きだった」と笑顔を見せた。

「伊津部老人クラブ虹の会」(高尾野壽会長)メンバー。奄美市老人クラブ連合会名瀬支部主催の「ゆらいまショー」で数回、島唄を披露した。

同じ喜瀬出身の山田高吉さんと結婚。70歳代まで機織りをしていた。子ども3人に恵まれ、孫7人、ひ孫は11人。コタツの上には、ひ孫の写真が飾られており、見るのを楽しみにしている。

大正・昭和・平成の3時代を振り返り、令和に思いをはせた渡さん

「和やかで良い時代に」
奄美市名瀬・渡道弘さん(94)

瀬戸内町加計呂麻島の押角出身の渡道弘さんは1925(大正14)年3月生まれ。今年で満94歳となった。平成の世を「若い人が島から出て行って帰ってこなくなってしまった。さみしい」と振り返り、新時代・令和には「和やかで良い時代になってほしい」と期待を込める。

現在、奄美市名瀬の介護老人保健施設「虹の丘」に入所する渡さん。趣味は「なんでも食べて、昼寝する。あとは囲碁」。二段の腕前を持つ囲碁について語るときは笑顔を見せる。

22歳で迎えた太平洋戦争終戦後は、中学校の理科教諭として多くの子どもたちを育てあげた。奄美群島内8校に赴任し、今では教え子たちの「還暦同窓会」に誘われることもあるという。

定年前に同市名瀬の中学校に校長として赴任したことを機に同市内に移住。退職後も「自治体への恩返し」という責任感から地域の公民館長、自治会長、老人会長などを歴任した。

1957年に妻・啓子さん(88)と結婚。男女2人の子に恵まれた。長男・和信さんの名前は「和やかに伸び伸びと育つように」と渡さんが命名。令和の新元号が決まった際は「和」の字が入っていることに喜んだそうだ。

いつも感謝の気持ちにあふれ、「ありがとう」を忘れない渡さんは、優しい性格で家族の和、地域の輪を守ってきた。令和の新時代を迎える奄美や、故郷・加計呂麻島に対し「観光客が多く訪れ、静かで暮らしやすいところをじっくりと見てもらえるようになれば」と思いをはせた。