尊敬する西郷隆盛像と写真に納まる勝幹事長=品川区の三州倶楽部で
【東京】121年目の新しい歴史を刻むこととなった東京奄美会。青年部長や女性部長を新しく迎え、大江修造新会長を支える体制が整った。その要である新幹事長には、徳之島出身の勝光重さんが任命された。会をサポートする心境などをインタビューした。(高田賢一)
伊仙町を離れて上京、どんな仕事をされていたのですか。
「18歳で上京、大学を出てからはYKKでIT関係の仕事に就きました。まだコンピューターが普及していない当時にIBMのコンピューターを会社が導入することになり、一から手作りで対応しました。懐かしいですね。根気のいる仕事でやりがいもありました。海外へのグローバルシステムを最初に構築しましたのです。たまたま学生時代にパソコンを勉強していたのを抜てきされた形です。会社生活の8割がコンピューターに関わる仕事でしたね」
東京奄美会との最初のきっかけは、何だったのでしょうか。
「会社の仕事も軌道に乗った50歳の頃に、島出身の先輩から声を掛けられたのです。多くの皆さんもそうであるとお聞きしますが、私も仕事を抱えて最初は若かったこともあり、ただ何となく会員として郷友会に顔を出して傍観的に会を見ていましたね。校区会からスタートし、関東伊仙町会、関東徳州会と順番に大きな会に出席するようになって、やがて東京奄美会に参加するようになったんです。人と関わるのが好きだったので全く抵抗はなく、知り合いがどんどん増えていくのはうれしかった。お酒も大好きなのは幸いしましたね。飲んで1時間も過ぎればみんな友達になっていた。さすがにこれからは、少し控えようかとも…(笑い)」
それから東京奄美会では、どんな風に関わっていったのでしょうか。
「故・佐藤持久さん、英辰次郎さん、そして前会長の森眞一さんと3代にわたる会長の元で執行部の片隅にいさせてもらい、活動しました。50歳を過ぎて東京奄美会に参加する機会が増えるに従って伊仙町の方からも、執行部で東京奄美会を支えてほしいとの要請もありました。ですから大まかな郷友会の流れは理解しているつもりです」。
とはいえ、東京奄美会の幹事長は大役ですね。
「そうなんですよ。まさか幹事長の声を掛けていただくなんて想像もしていませんでした。正直、私でいいのか自分の力量で大丈夫なのかと悩みました。ですが、3会長の下で活動させてもらい、12年間に各郷友会との方々との飲み会などを通して心が通じ合っている状況だったので、色んな励ましを受け少しずつ心強くなっていきました。ベテランの方たちからも、『おまえがやれなきゃだめだ』など、背中を押してくれたのが、大変ありがたいことでした」
幹事長として、どんな東京奄美会を目指していきますか。
「大江会長とも一致している意見なのですが、当然守るものはいっぱいありますが、東京奄美会も時代とともに変わっていくべきだと思っています。例えば、何かの連絡にしてもはがきをやめてメールにするなど、紙ベースからの脱却を目指し、時間とお金の短縮を図りたい。執行部では既にそうしております。もちろん、それらに対応できる会員からスタートしていきます。とにかく各郷友会の不満などを集約する。それを飲み会の場だけで終わらせることのないようにまとめていくつもりです。この2点を1年間かけてやりたいですね。また、議事録をホームページに載せるなどにもチャレンジしていければと考えております。いずれにしても、執行部側が会員の意見をよく聞くことが大切なんじゃないでしょうか。大江会長を支えながら、スピード感あふれるフレッシュな東京奄美会になっていけばいいですね。いろんな意見が交わされる飲み会の席には、積極的に顔を出しますので、これまでと同じように声を掛けてもらえればうれしいですね(笑い)」