「更生」と「島」への思い語る

今年、再任用で島に帰ってきた光岡英司大島拘置支所長

大島拘置支所・光岡支所長
更生のてがかり「バックボーン知り受け止める」
再犯しないですむ社会的仕組みづくりを

 罪を犯して服役した人を更生させることを職業にしている人たちがいる。その名は刑務官。法務省内の矯正局が管轄する国家公務員だ。鹿児島刑務所大島拘置支所に勤務する光岡英司支所長もその一人。「更生」と「島」への熱い思いを聞いた。
 
 光岡さんは名瀬出身で、伯父や従兄弟、妹の夫も刑務官という世にもまれな「刑務官一族」だ。「定年退職後はぜひ故郷の奄美に赴任したい」という熱い思いをかなえ、今年4月から現職についた。

 かつて記者も見た、矢之脇の大島拘置支所(当時は刑務支所)はひどくすさんでいた感じがする。建物の塀にはガラス瓶が突き刺さっていたり、塀を覆う鉄条網もゆがんで絡み合っているなど、見るからに暗くて怖い一角だった。しかし、新しく竣工された大島拘置支所には、そんなイメージはみじんもない。

 「42年ぶりの島。5カ月で3㌔太った」と笑う光岡さん。まさに「故郷に錦を飾った」わけだが、その姿を、刑務官の先輩としてずっと憧れていた伯父は亡くなり、晴れ姿を見せることはできなかった。それがなんとも残念だと、光岡さんは話す。光岡さんは矢之脇の出身。同じ地域に住んでいた伯父が刑務官だった。「犯罪者を更生させるなんてすごい。自分もそんな仕事に就きたい」と幼い頃から思っていたという。

 そんな光岡さんに忘れられない出来事があった。中学時代の友人が非行に走り、教護院送りになったのだ。その友人は「とてもいいやつ」なのに、光岡さんのいないところで急に大声を出したり、暴行を働いたりしていたのだという。

 「なんでこんないいやつが悪いことをするんだろう?」。不思議で仕方がなかった光岡さんだったが、思いを巡らせるうち思い至ったのが「生活環境」だった。一人親などの家族構成や家族仲、低収入や借金に追われる貧しい生活。

 「そうだ、生活環境さえ違っていたら、あいつだってこんなことにはならなかったのに」

 非行、犯罪に走る人間の多くは生活環境によって生み出されている。だからこそ、彼らのバックボーンを知り、しっかりと受け止めることが大切なのだ。そうすれば、彼らを更生させる手がかりは必ず見つかるし、間違いなく更生に導くことができる。光岡さんはそう確信した。

 光岡さん自身、幼いころ両親が離婚している。だが、幸いにも母親に愛情深く育てられたおかげで、それを理由に非行に走ることはなかった。だから、自らの非行を「一人親」のせいにする同僚たちに「それは違う、間違いだ」と訴えた。絶対にわかってもらえると信じていたが、現実はそう簡単ではなかった。

 大島高校卒業時、光岡さんは刑務官採用試験の受験を勧められたが、「刑務官以外に仕事が見つかるかもしれない」と違う道を探して亜細亜大学に進んだ。が結局、4年後に刑務官採用試験を受け、1981年2月に定員約2500人の東京・府中刑務所に採用された。当時は受刑者2000人近くが入所。現場で刑務作業終了後、全身に入れ墨をした受刑者が入浴をしている。同期採用者たちの中には入れ墨が怖くてやめていく人もいたという。

 光岡さんは恐怖心こそなかったが、反抗的で人の言うことを聞かない入所者が多い現実。「更生させるためには自分が強くならんといかん」と心身を鍛えることを決意する。高校時代にバレーボール、大学時代にはボクシングに打ち込んできたうえに、就職直後からは剣道に挑戦しメキメキ上達、現在は六段を目指す実力者だ。背筋がぴしっとまっすぐで、おなかもまったく出ていないのは、年齢的に見事というほかない。

 大島拘置支所の収容定員は男女あわせて28人。取材当日は7人の被告人と言われる人たちが、入っていた。受刑者が自分たちでつくる昼食の検食を行うのも支所長の光岡さんの仕事だ。拘置所や刑務所は一つの社会のようになっていて、炊事、洗濯、掃除など、すべて自分たちで行うのが義務付けられているのだという。

 拘置所や刑務所で受刑している人の多くは更生したいと願っている。再犯しないように皆で見守り、再犯しないですむ社会的な仕組みづくりを進めていくことが大事だと、光岡さんは力説する。また、「38年間、この仕事を辞めたいと思ったことは一度もない」と、刑務官をまるで天職のように語る。いずれ島に帰ろうという熱い思いも、激務の支えになったのだろうか。

 大島拘置支所では施設見学(参観)を広く受け入れ、更生のための仕事の大切さを特に子どもたちに伝えていきたいと考えている。
     (永二優子)
 
 (みつおか・えいし)61歳。名瀬出身。大島高校から亜細亜大学に進み、1981年2月府中刑務所採用。その後、広島矯正管区勤務、法務省矯正局勤務、2000年4月東京拘置所勤務、03年4月矯正研修所などの勤務を経て、岐阜刑務所長、広島刑務所長を19年3月末定年退職後、再任用で故郷の奄美で勤務。15回もの転勤を経験。福岡で生活する妻と離れて単身赴任。87歳になる親の支援も行っている。