いかにしてコロナと「共生」するか?

「都市化」「グローバリズム」から「郊外化、農村化」「地域化」へ

 新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言は全国的に解除された。プロ野球やJリーグの開幕日が決まるなど、再生への歩みを踏み出したような雰囲気を感じる。

 一方で北九州のように新たな集団感染が発生した場所もある。第2、3の波がやってくる情報もある。ワクチンの開発など抜本的な解決先が見つかるまでは、「コロナの影響」を常にどこかに意識する期間は数年単位で続くことだろう。

 目に見えないウイルスを完全に「撲滅」することは極めて困難であり、何らかのかたちでコロナと「共生」していく必要がある。

 県政にとってもコロナ対策は現在の最重要課題だ。6月県議会の三反園訓知事の提案理由説明書が手元にある。全22ページ中1ページ目から11ページまで、感染防止策から経済対策まで、これまで取り組んできたことやこれから取り組むことなどが列記されている。「困難な状況である今こそ、お互いを思いやり、お互いに感謝の気持ちを持って支え合う気持ちを忘れずに行動することが大切」と述べている。

 7月の県知事選も最大の争点となることは間違いないだろう。前職の伊藤祐一郎氏は「人間とは元々、人という生物体。これが『間』にいて人間になる。3密禁止などでこの『間』をコロナが消すのだから、人間社会のありとあらゆる制度が崩壊する」と警鐘を鳴らし、国や地方による徹底した財政出動を訴える。

 身近な生活を振り返ってみよう。県内では4月20日以降、新たな感染者は出ていない。学校は通常授業が始まり、部活動も再開された。県高校総体は中止となった代わりに、各部を中心としたメモリアルマッチという代替案が提示された。高校野球は地区予選、決勝トーナメント方式の代替大会実施が発表された。

 少しずつ、元通りの生活への歩みを見せ始めている一方で、お店に行けばレジは透明なシートがガードされており、店員はマスクの着用が義務付けられている。マスクとシールドで遮られているので、ちょっとした会話が聞きづらくなる時がある。目に見える風景は1年前と変わっていないはずなのに、人の心がどこか縮こまって閉塞感に陥ってないだろうか。

 本棚にあった『農的生活のすすめ』(志學館大学生涯学習センター編・南方新社)を読んだ。夫婦や子ども、友人との関係をより強固にし、仕事や貯蓄、これまでの生活様式を点検し、今後への備えをしている中で、ふと「農業をしてみたい」と思うようになった。自分で料理をするようになって、食材を提供する農業に関心がわいた。

 農村人口はどんどん減り、日本の食料自給率は40%を切った。今後戦争などで世界の物流がストップすれば、日本人はたちまち餓死してしまう。戦争ではないが、コロナの影響が世界中に蔓延している現状は、物流を止めてしまう危険性は十分にあるだろう。ならば「自分で食料を確保する術を知っていても悪くない」と思った。

 出版元の南方新社を訪ねた。「コロナは台風みたいなもの。じっとしてやり過ごすしかないんちゃう?」と社長の向原祥隆さんが飄々=ひょうひょう=と語る。

 3、4月の売り上げは4割減、5月は8割減だった。外出自粛で本を読む人が増えたのではないかと思ったが、家にある本を手に取る人は増えても、外に出て買う人がより少なくなってしまったようだ。

 7人いる従業員への給与は今まで通り支払っている。現状が続けば減額も考えるが「いざとなったら借り入れをすればいい」とどこか達観している。「商売を続けていればいつか借金は返せるから」。

 これまで世の中は「都市化」「グローバリズム」を急速に進めていった結果、コロナ騒動で頭打ちになった。「3密禁止」「ステイホーム」の推奨は皮肉な見方をすれば「郊外化、農村化」「ローカリゼーション」への手のひら返しと言えなくもない。

 「鳥のさえずり、草花の美しさにも気づくようになったのでは?」と向原さん。このところ近所の甲突川を子供たちと散歩すると、いろんな種類の草花や虫たち、鳥や魚を見かけるので、子供たちも大喜びする。「これ〇〇というんだよ」と知識を披露すれば、父親の威厳が増すこと間違いなしだが、残念ながら当方にその知識がない。以前買った南方新社の草花図鑑が実家にあったはずだから、探してみることにしよう。

 帰りに向原さんたちが、耕作放棄地を間借りして農業している場所=写真=に行ってみた。近くに水源地からの湧水が飲める。冷たくて美味しい。雑草だらけの畑でも緑が目にまぶしい。県内で最も都市化が進んでいる鹿児島市でもちょっと郊外に出ればこんな光景があちこちで見られる。コロナと共に生きるのも悪くないかもと思った。
     (政純一郎)