笠利町・赤木名慰霊碑

犠牲者の冥福を祈る参加者

40人の空襲犠牲者悼む
戦後75年 遺族高齢化・継承が課題

 赤木名慰霊碑会(平田博三会長)は6日、奄美市笠利町の赤木名慰霊碑で1945年8月6日に空襲で亡くなった40人に祈りを捧げた。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、島内の遺族12人のみで行った。第二次世界大戦の終戦から75年の節目を迎えた今年、参加者らは平和の誓いを新たにした。

 犠牲者は赤木名公民館の裏地にあった防空壕の中に逃げたところを米軍機に襲撃された。当時1歳の乳幼児から高齢者まで、防空壕内にいた全員の命が失われたという。防空壕は横幅6㍍、高さ2㍍、奥行き3㍍。

 その後30年間は簡易的な墓石があり、75年に同会が現在の慰霊碑を建てた。

 平田会長は、「青年学校の教諭が3人、生徒が5人、農協の職員が2人、地域住民が30人、一度に亡くなった。防空壕の左半分にいた人は空爆の衝撃で土砂崩れが起き窒息死。右側にいた方のご遺体は原形がなかった」と記録から当時の様子を語った。

 遺体が一部のみ残った人の遺骨は、慰霊碑横にある納骨堂に納められている。

 また、高齢化で参加が困難になっている遺族もいるという。平田会長は「慰霊碑は戦争の悲しさを示す大事なもの。同じ過ちを繰り返さないために、子どもたちにも当時のことを伝えていきたい」と、継承活動の重要性を訴えた。