コロナ禍の夏に考える 隔離の歴史 =上=

ハンセン病を研究する上で欠かせない文献などが並ぶ森山さんの自宅の蔵書

感染、隔離政策の根拠に

 「皆さん、ハンセン病という病気をご存じでしょうか。1907(明治40)年から96(平成8)年まで、90年にわたり患者は国の強制隔離政策の対象とされてきました」「ハンセン病は、らい菌という細菌によって引き起こされる慢性の感染症です。主に末梢神経と皮膚が侵され、感覚異常、皮膚のただれ、視力障害等の病的症状が表れます」「90年にわたる患者隔離政策において、療養所の職員の中から一人のハンセン病患者も出ていないことからも、感染力・発病力が弱いことがわかります。衛生状態の改善により発生率も大幅に低下します。ですから、すべての患者・感染者を一生にわたって隔離する必要性など全くありませんでした」

 国立療養所奄美和光園に入所した元患者でハンセン病歴史研究者の森山一隆さん(72)。同和教育に関心の高い教員の働きかけもあり、学校に招かれての子どもたちを前にした啓発講演では、隔離政策の歴史、自らの体験に基づいた療養所生活などを分かりやすく伝えている。ハンセン病に関する文献など自らの蔵書を公共施設に寄贈したり、会員向けの会報発行に取り組むのは首尾一貫とした理由がある。「正しい知識を習得してほしいから」。

 奄美では「他にやる人がいないから自分がやっている」と親しみやすい人懐っこい笑顔で語りながら、森山さんは続けた。「ハンセン病は隔離する必要がないのに、国の政策として長年にわたって隔離政策が強行された。正しい知識があれば正しい判断のもと、国が打ち出す政策でも誤りに気づき国民が異論を唱えることができる。今はインターネットでさまざまな情報が入手できる時代だが、ぜひ専門的な文献を手に取りページをめくって自分の知識にしてほしい」。精力的に活動を重ねる森山さんの願いだ。

 ▽隔離の始まり

 森山さんが寄贈した蔵書の一つに『ハンセン病―排除・差別・隔離の歴史』(岩波書店発行)がある。記述をもとに歴史を紐解いてみよう。

 ハンセン病は弱い感染症だ。免疫力の弱い乳児期に菌と濃厚な接触を続けると感染する場合もある。感染してもすぐに発病しない。他の疾病や疲労・栄養障害などで体力が低下した時、発病することもある。こうしたことから家族内感染が多い。これが誤解の発端となったかもしれない。「ハンセン病は近代以前、遺伝病という誤解を受けてきた」。

 歴史の事実として直視しなければならない排除・差別の記述がある。「日本では、病者が出ると『癩筋』の家とみなされ、家族・親戚が婚姻忌避の対象とされた。『癩部落』という言葉がある。ハンセン病者が多いとされる集落はこのように呼ばれ、婚姻が忌避された。こうした現実がある以上、病者は家の一室に身を隠し民間療法に頼るか、家を出て家族とも縁を断ち、放浪するかを余儀なくされた。神社・仏閣の門前で参拝者に物乞いする光景は近代以前から見られていた」。

 遺伝病という誤解。それによる排除・差別。激変したのは医学的な研究によって。1873年、ノルウェーの医師アルマウエル・ハンセンが菌を発見、97年にはベルリンの国際会議でハンセン病は感染症であることが確認された。遺伝ではなく、感染するということが医学的に承認され、これがハンセン病者への隔離政策の根拠とされた。

 日本では1906年、当時の帝国議会に議員立法として「癩予防法案」が提出された。この法案は衆議院で可決されたものの、当時の貴族院では審議未了となった。ところが翌年の議会で同様の政府案が提出され、法律として成立。この法律に基づいて全国を5区に分け、それぞれに連合道府県立のハンセン病療養所が設置された。これらの施設の完成を待ち、09年から隔離が始まった。

 ▽奄美では

 森山さん所有の資料によると、奄美での隔離政策の始まりは「1935(昭和10)年7月、林文雄が『救らい思想』普及講演を行った」のが影響したとされている。医師だった林は東京の国立療養所多磨全生園など各地の療養所で園長として勤務するとともに、奄美、沖縄にも足を運び、患者救済のための療養所建設に力を注いだという。

 林が普及講演を行った年の11月には、奄美、沖縄の患者の収容を開始。2年後の37年からは「奄美救らい協会」と地元有力者などの協力で、奄美での隔離政策が進展した。なお、奄美救らい協会の発会式が行われたのは同年6月。会員は千人を超え、会長には当時の大島支庁長、副会長には警察署長が就き、協会結成後すぐに奄美大島に療養所をつくる運動が開始された。

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 新型コロナウイルスの感染拡大は加速する一方だ。日本国内だけでなく世界中で同様の傾向にあり、世界の感染者数は今月10日には累計で2千万人を超えた。終息への出口が見えない中、感染者や医療従事者、その家族への〝感染バッシング〟とも言える差別や偏見はなおも続く。さらに感染への警戒は「相手を攻撃する」ことで自らの不安を抑え満足するという、いびつな対立を招いている。見えない罹患におびえ、差別・偏見に基づいて排除しようとする構図。ハンセン病の隔離政策と重ならないだろうか。コロナ禍、戦後75年の夏に隔離の歴史を考えてみた。