ジムには、長渕剛さんから贈られた書画も飾られている。円内は、誕生日を祝う花に囲まれる宮畑豊さん
奄美への思いと、登場人物を紹介しながら次の人にバトンをつなぐ「奄美のためにできること。新型コロナウイルスと私は戦う!」の第13回。音楽家・長渕剛さんからの紹介で、トレーニングジム会長の宮畑豊さんが登場する前編をおくる。(東京支局・高田賢一)
豊かな自然に恵まれた故郷で、のびのびと育った。
「瀬戸内町の芝深浦で生まれました。山、川、海…。それはもう、素晴らしい自然に囲まれた地域でしたよ。格闘技がとても盛んな土地柄で、相撲の土俵もあちこちにありましたし、柔道、空手にも親しみ、のびのびとやんちゃに育ちました。でも、緑健児君よりはおとなしかった(笑い)と思いますよ。彼は努力の天才ですね」
警察官を夢見るも、けがで断念。入院先を脱走し、手術を回避する。
「中学、高校で相撲柔道の県大会を制し、将来は、大阪か東京での警察官を目指し東京五輪の強化選手にも選ばれました。ですが、そんな折、腰を痛めてしまったのです。19歳の時、脊髄分離症で1年間寝たきりの入院生活を余儀なくされました。医者からは『運動はもう無理』と突き放され、手術を薦められた。その頃は治療といってもマッサージくらいのもの。『自分で何とかするしかない』と決意、手術を回避するように、大阪の病院を抜け出しました。あの時、もし手術を受けていたら今の私はないでしょうね」
仕事を通じて築き上げた長渕剛さん、緑健児新極真会代表との絆。
「知人を頼り、『明日手術』と言われた日に、名古屋の病院に逃げるように入院。手術をしないで何とか退院にこぎ着けた私は、たまたま大阪の、くろがね工作所に就職。そこにボディビルのクラブがあったのです。退院したばかりで最初は体力がありませんでしたが、そこは、奄美で培った『すとぐれ根性』です。徐々に力をつけて、2年目から入賞、以来、日本と世界でナンバーワンになりました。49歳まで現役を維持しました。世界を代表するエンターテインメント長渕剛さんとは、緑代表からのつながりです。一般的にはナーバスなイメージを持たれがちな長渕さんですが、純粋で温和。とても優しい青年。我々とは、普通によくしゃべりますよ。最初は体力も無くて、か細い印象でしたが、トレーニングするうちにどんどん変わっていきましたね。鹿児島桜島でのコンサート(2004年)の前の合宿に帯同したのですが、緑代表もついていけないほどのメニューを、黙々とこなしていた。体幹の強さと、彼の持って生まれた負けん気の強さに驚いたものです。もう30年以上の付き合いになりますよ」
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宮畑豊(みやはた・ゆたか)1941年8月21日瀬戸内町生まれ。けがをきっかけにボディビルに出会い、輝かしい成績を残すボディビル界のレジェンド。独自のウエイトトレーニング理論は、プロ、アマを通じて多くの信奉者を集めている。御徒町で「トレーニングセンターサンプレイ」主宰。