2011年8月9日、気仙沼から南三陸町にかけての被災地の様子=鮫島美佐さん撮影=
【東京】2011年3月11日午後2時46分18秒、東北地方を中心に未曽有の被害となった東日本大震災。10年の節目に、思いをあらたにする人たちも多いに違いない。東北在住の奄美出身者たちに、あの日何が起こったのかを聞いた。
東北奄美会を16年10月に立ち上げた、同会会長の里めぐみさんが夫の故郷・宮城県仙台市に移り住んだのは13年。11年のその日は、奄美の情報を発信する「奄美人ドットコム事務局」の記者として、山梨県で開催された新極真会の大会にいた。激しい揺れに体育館は停電したものの、いったん収まった。惨状は翌日、カーナビのテレビで知った。幸い青葉区の夫の家は無事で、家族も被害はなかった。里さんは「新極真会の炊き出しに同行し、4月29日に被災地の女川町を訪れました。船が町の真ん中に乗り上げ、一面がれきの山。言葉を失うほど悲惨な光景が広がっていました。ですが、『死体がないだけいいよ』と言われました。もっと早く被災地に入った人たちは、どれほど大変だったのか…」と静かに振り返った。約2年後、被災地に向かったが「家がない、ぐちゃぐちゃの状況は、全然変わりない」を目の当たりに。復興の遅さを痛感した。
一方、徳之島出身で東北奄美会の会計を担当する戸田由美子さんは、夫の仕事で03年から仙台に。太白区長町のスーパーで、大震災を体験した。パート勤務の戸田さんは「午後3時はレジが入れ替わる時間帯で、その準備をしていたのです。突然の大揺れに、お酒のコーナーの瓶がスローモーションでドミノ倒しのようになったのが、頭から離れません。奥のお客さまを誘導する際、その方が恐怖で震えていたのも覚えています」。
家族は無事だったが、住んでいたマンションは半壊、ライフラインが復活するまで1カ月を要した。その夏、徳之島にいる教師の妹が、「子どもたちに震災の悲惨さを伝えるために」と姉を頼ってきた。教育のためにと気仙沼から南三陸へ必死でハンドルを握った姉だが、この取材で10年ぶりに、妹の写真を見るまで、それは2年後の記憶だった。「地震の瞬間は覚えていますが、その後のことは飛んだようです」とショックを隠し切れない。「わせねーでや(忘れないようにしたい)」(戸田さん)。
「島育ちで、地震はほとんど経験していなかった」と口をそろえる二人にとって、この2月に起きた最大震度6強の地震は「いまいましい記憶を呼び起こさせた」。里さんは「ライングループで、大丈夫でしたか?と連絡を取り合ってフォローしています」と約50人の会員の無事を確認する体制を整えている。毎年やって来る「3月11日」は、震災の教訓と会員の絆を確かめる日でもあるようだ。