「糸がともだち」押川さん

一点ものの帯を糸から紡ぎ、高ばたで織る押川さん

黄色い蚕糸に大島が彩られる
  

蚕から機織りまでこなす職人
紬美術館工場で帯づくり

 奄美市笠利町の大島紬美術館(ホテルティダムーンに隣接)の工場内で大島紬を織りこんだ帯を織るのは、押川博道さん(73)だ。黄色い蚕の繭玉から糸を紡ぎ、シャトルを飛ばして見事な腕前で機=はた=を織る。

 押川さんは、大島高校卒業後、大阪の南興産業に入社。京都西陣の染織試験場に夜学で2年間通った。学費は同社が持ってくれたという。

 当時の大阪の同社には大島紬を扱う問屋ばかりが集結。売り上げは問屋にばかり吸収される状況だったという。それでも、当時の名瀬の町には紬団地が立ち並び、好景気の時代もあった。そのうち、大島紬が売れなくなっていく。安い工賃が続き、それがあだとなって、大島紬を織る人たちがいなくなっていった。

 押川さんたちは、「自分たちで作って自分たちで売ろう」と〝地産地消〟の機運が生まれ、産地販売や直販で全国各地に大島紬を抱えて売り込んだ。現在も日本国内を走り回っていた。

 ところが、新型コロナウイルス感染症で、奄美での滞在期間が増え、常連のお客さんからの依頼品作りをする時間ができたという。「今、織っているのは、京都の帯屋さんのため。一人ひとり図案を変えて一点ものを織っている。ご指名の品だよ」という。

 黄色い蚕の繭玉から糸を紡ぎ、管に巻き杼=ひ=(シャトル)に納められて、よこ糸を織っていく。押川さんの機織りの鮮やかな技に目を見張った。

 「蚕はかわいいよ。島にも天然の蚕はソテツの葉の上や桑の葉にいるけど、一反織るのに7000個のカイコが必要。織っている糸もかわいい。糸がともだちよ」と、愛おしそうに話す。

 もうじきで織りあがる帯を巻いて歩く、お客さんの笑顔を思いながら機に座り続ける日々が続く。