デビュー作はキネマの神様 古仁屋出身の房プロデューサー 上

東劇ビル内の「山田組」の部屋で話をする房さん

『キネマの神様』のポスター

奇跡が重なり松竹映画100周年記念
作品に相応しい映画に

 松竹映画100周年記念作品『キネマの神様』は8月6日に一般公開を迎える。看板喜劇『男はつらいよ』シリーズの山田洋次監督がメガホンを握る。「山田組」プロデューサーとしてデビューを飾るのが、瀬戸内町古仁屋出身の房俊介さん(36)だ。山田監督の自宅に住み込んで5年間、書生生活を続けたこともある。今回の映画は、主役の志村けんさんの訃報に伴うキャスティングの変更、コロナ禍での撮影の中断、公開の延期、沢田研二さんへの代役依頼など「2年がかりで準備してきて、得体のしれないウイルスに苦しめられた」と房さんは振り返る。「かつて映画業界が直面したことのない状況の中ではあったが、奇跡が重なって完成した」と胸を張る。映画作りの現場に入ることになったきっかけや楽しさなど、「山田組」と称する松竹の本社・東劇ビル3階「山田組」部屋と撮影場所となった「東宝スタジオ」で話を聞いた。2回にわたって紹介する。(写真=屋宮秀美、文=永二優子)

◎山田組との出会い
 
 房さんが山田洋次監督と出会ったのは、『男はつらいよ 紅の花』の撮影に訪れた1995年。10歳の時だった。翌年に渥美清さんが他界した。山田監督は「寅さんとリリーは加計呂麻島で仲良く暮らしてるんだ」とストーリーを作り、毎年、島を訪れることになる。古仁屋で房さんの両親が営むホテルを定宿に、諸鈍の「リリーの家」のサンゴ石垣塀に線香を手向けている。その山田組になんの違和感もなく毎年合流。

 「大のおとなたちが、映画や芝居、釣りやヤドカリについて…なんに対しても情熱を燃やし、熱く語っているのは一体なんなんだ?この人たちは東京でどんな仕事をしているんだろう?」。幼い少年の時の素直な感想だった。

 古仁屋小から同中、鹿実を経て東海大学海洋学部、新日鐵へと入社するも「この仕事あってないな~」。島へ帰る段取りのため、総合旅行業務取扱管理者の資格を取得。2009年だった。

 この時に山田監督に、山田組スタッフへの憧れや、自分の思いを綴った手紙を書いた。山田監督は吉永小百合、笑福亭鶴瓶の映画『おとうと』を準備中。その最中に山田監督の妻が亡くなった。山田家に通いながら手伝うようになり、そのうち泊まることが増えていった。そんな日が続いたある日、「住んじゃえよと仰っていただいた」。   

 『おとうと』の撮影から住み込み生活が始まった。そこから山田家の一員としての普段の生活や監督の映画や舞台、クリエイティブな仕事を続けた。5年間が過ぎていた。その間㈱松竹映像センターに所属。そして今作から山田組プロデューサーの肩書を背負った。
 
 ◎大抜擢の初プロデューサー
 
 3年前の18年4月。山田監督と原田マハさんの対談後、小説『キネマの神様』が「松竹」の100周年企画に決まり、大角正映像本部長(現松竹撮影所会長)に「山田洋次と、大きな仕事として、初めてしっかり向き合ってみろや、松竹100周年の映画はお前がメインプロデューサーや」と言われた。房さんが、プロデューサーとして大抜擢された日だった。

 「キャスティング含め、映画の隅々まで任された以上、これまでの山田組と同じことをしていては意味がない。自分の色を表現していく」と翌日、大角さんに覚悟を伝えた。

 山田家住み込みの5年間、監督とは、たくさんの映画や舞台を一緒に観てきた。そのおかげで山田監督が好む役者や演技は熟知していた。