戦中、戦後、そして日本復帰へ

住 誠一郎さん

 

空爆、機銃掃射、飢え
日本復帰叶う「市民あげてのお祝いだった」
住用町役勝出身・住 誠一郎さん
戦後76年終戦特集

 

 1945年の終戦から76年の歳月が経ち、戦争の記憶を知る人も高齢に。語り継ぐ機会も減ってきてしまったが、今一度、戦争を振り返り、未来への道標=みちしるべ=として少しでも残しておきたいと、当時を知る人を訪ね、話を聞いた。

 住誠一郎さん(88)は、奄美市住用町役勝出身。30歳までを島で暮らし、その後上京、関東財務局で定年を迎えるまで働いた。今年の2月には、旧大蔵省勤務25年、定年前は財務局監察官として勤め上げた功績が認められ、叙勲で瑞宝双光章を受章した。

 住さんを千葉に訪ねた。

 「あんなに狭い場所にも、グラマンは来て、機銃掃射したんだよ」――。終戦当時、住さんは国民学校6年、現在の小学校の6年生だった。

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 かすかな記憶に日本の真珠湾攻撃の記憶がある。日本軍の大本営発表は戦果ばかりで「日本は神の国、絶対負けない」。そう思い続けてきた。ところが、次第に日々の食事にも事欠き、子どもたちは山に入り、木の実で飢えをしのいだ。「終戦の前の年、シイの実が豊作で、あれで生き延びた気がする」と、当時を振り返る。

 戦争も後半に近づくと、軍の要塞があった瀬戸内町の古仁屋は空爆され、黒煙が上がるのが住んでいる住用からも見えた。近くへの空爆も日に日に多くなった。それでも日本は負けることはないと思っていたから、怖くはなかったという。

 住用は田んぼがたくさんあり、ワラを干していると人に見えるのか、グラマンの機銃掃射がそれを打ち抜いていった。山あいの狭い集落、役勝にもグラマンは容赦なく襲ってきた。「引き寄せ作戦」と説明されていたという。こちらに引きつけている間に「神風」が吹いて敵の船をやっつけてくれる、そう説明され、信じていた。

 空襲警報が鳴り響くと、家族で掘った庭の防空壕に逃げ込んだ。青壮年は全て招集されて、地元に残ったのは老人と女性、子どもたちだけだった。若者を戦地に送って働き手が減ったところを、子どもたちが担った。4年生の頃から、スキガマで田起しを手伝い、親戚を助けた。

 残された大人は防衛団を結成、竹槍=やり=練習、防火訓練に明け暮れた。

 戦争が長引くと配給も次第に乏しくなり、飢えをしのぐためにソテツの実を使ったナリがゆ、芯をさらした芯がゆも食べた。山に入り、グアバ、グマノミ、松の木に絡まるアケビをとり、空腹を満たした。「大変なご馳走だった」。 

 終戦の知らせはある日突然届いた。

 学校に空からビラが舞った。ジープが3台、校庭に止まり、肩から銃を提げた米兵たちが、降り立った。児童たちは一斉に山の奥に走って逃げた。教員たちの「安全だから下りてきなさい」の呼びかけに子どもたちは恐る恐る山を下り、全校児童200人余りが校庭に集まった。米兵たちも片言の日本語で「心配ない」「おいで」と声を掛けてきた。チョコレートをもらった。

 敗戦後、奄美は米軍の信託統治になり、米国の缶詰などの物資が届くようになった。琉球列島米国民政府が名瀬にも建った。当時名瀬には、外務省を除く国の行政機関のほとんどがあった。

 住さんは高校進学で名瀬に行く。日本復帰運動が盛んになってきていた。高校在学中から、教職員の先導のもと、復帰運動に加わった。放課後、各学校に集まった生徒たちは「日本復帰貫徹」「頑張ろー!」とシュプレヒコールを上げながら市内を練り歩いた。道々に学生があふれ、市内が行列に包まれているほどだった。毎日ハチマキをして右の握りこぶしを頭上に突き上げて喉がかれるまで叫びながら、歩き続けた。

 集中的に資金投下された沖縄本島に比べ、経済的にも困窮していた奄美は、本土への渡航が禁じられ、物資の補給もままならなかった。食料難と学問の遅れは深刻で「日本に復帰させなくてはいけない」と勉強そっちのけで、教職員たちが先頭に立って、生徒たちと市中を行進した。

 高校を卒業し、名瀬にあった当時の南九州財務局鹿児島財務部名瀬出張所に就職した後も、復帰運動には参加した。復帰運動の指導者、泉芳朗氏のハンガーストライキの様子も伝え聞き、気持ちの後押しとなった。国民運動として、政治犯のように弾圧されることはなかった。 

 1953年12月25日ついに、島民の願い、奄美の日本復帰が叶った。「その日の喜び様はなかった。市民上げてのお祝いだった。街中火がついたようだった。提灯行列も夜まで途絶えなかった。みんながアルマイトの弁当箱を太鼓代わりにたたいて祝った」。「日本復帰万歳」の声に街中が沸いた。

 名瀬で12年勤めた後、関東財務局の職員募集に応募、関東に暮らす姉夫婦を頼り、妻と2人の子どもを連れて30歳で島を離れた。「子どもたちの教育を考えた」。その後は大蔵省に勤務、今年の2月には長年の功績が認められ、瑞宝双光章を受章した。現在は千葉県で子どもや孫に囲まれ、趣味の囲碁や、シマ唄を楽しみながら妻の幸子さん(85)と幸せに暮らしている。

 「島が一番です。島があっての自分です。島を誇りに思っています」と話す住さん。一方で「高校の時も主食はおかゆだった」。育ち盛りに満足に食べられなかったことは、今でも記憶に深く残っているという。
                                (屋宮秀美)