大納宮継さんの絵を持つひ孫の忠人さん(左)と、「征露日記」を解読した前利潔さん(右)=11日、知名町大津勘=
【沖永良部】知名町でこのほど、日露戦争の従軍日記が見つかった。召集令状が届いてから従軍までの過程や戦時下の島民の意識を知ることができる。
日誌を書いたのは、知名町大津勘の大納宮継(みやつぐ)さん。表紙に「征露日記」と書かれている。今年6月、大納さんのひ孫にあたる忠人さん(61)が家に残っていた日記を解読してほしいと、同町中央公民館職員で沖永良部の歴史に詳しい前利潔さんに提供した。
全19ページ。日記が始まる1904(明治37)年2月5日には「待ちに待った令状を受領した」「今度こそ世界に日本武士の腕波(腕前)を見せ」などと書かれている。大納さんは当時29歳。
2月11~15日には、和泊港を船で出発後に島伝いに軍人を乗せて鹿児島へ向かう様子を伝えている。
4月25日には、駐屯していた韓国ウォンサン(元山)にロシア海軍が攻撃を仕掛け、日本軍の輸送船「金州丸」を撃沈したことが記述されている。
7月6日に「身体が悪くなった」とあり、その後療養しながら日本に戻ったことが分かる。05(明治38)年6月10日で日記は終わっている。
大納さんの家は太平洋戦争で家が全焼、1948年に建て替えたものだという。忠人さんは「日記が残っていたことに驚いた。宮継じいさんは、自分の子どもが生まれたばかりなのに戦争に行った。一歩間違えば死の可能性もあるのに、どんな気持ちで戦地へ行ったのか、今の私には想像できない」と話した。
解読した前利さんは「戦死者の記録は町誌にも残っているが、従軍の過程が記されている日記は群島内で発見されていないだろう」と話した。
瀬戸内町郷土館学芸員の町健次郎さんは「見送りで国旗を掲げる風景がすでに島々にあり、『万歳』の掛け声も定着していたことがわかる。日露戦争に従軍していた島出身者の手記は珍しい」と語った。