西郷輝彦さん葬儀 奄美出身者経営する斎場で見送られる

在りし日の西郷輝彦さん(写真提供=西郷エンタープライズ㈱)


優しくほほ笑む西郷さんの遺影が置かれた祭壇(写真提供=西郷エンタープライズ㈱。円内は宮地会長)

十数年来の親交 「好感度100%でした」

 【東京】「御三家」の一人として長きにわたり芸能界で大活躍した、西郷輝彦さんが2月20日に75歳で都内の病院で永眠した。通夜、告別式が23、24日に営まれたが、そこは奄美出身者が経営する斎場だった。その人物は、遺族に寄り添いながら大スターを優しい眼差しで見送っていた。

 西郷輝彦さん(本名・今川盛揮=いまがわ・せいき)の葬儀が執り行われたのは、足立区の「㈱日本典礼」足立区谷在家2―1―16)。代表取締役会長を務めるのは、瀬戸内町出身の宮地正治さん。1957(昭和32)年に18歳で上京。仕事も家庭も順調のさなか、最愛の息子を交通事故で失ってしまう。それを機に、商社勤めから命を送り出す仕事に就いたのだった。

 88年から経営者として幾多の旅立ちに立ち会ってきた。だが、十数年来親交を深める西郷さんの葬儀は、特別だった。「素晴らしい人格形成で、好感度100%でした。西郷という名をつけただけのことはありましたね」と静かに語った。

 7年ほど前に静岡・日本平のホテルのイベントで、夫人と3人の娘さんと初対面。「照れくさそうに紹介する、彼の顔が忘れられない」という。「コロナ禍でなかったら、ビジネスのために会う約束だった…」。無念の表情で言葉を選んだ、宮地さん。4年前、浅草ビューホテルで食事を共にしたのが最期だった。故郷のため、損得考えず、ひと肌脱ぐことを惜しまなかった西郷さん。

 「18年の『谷山ふるさと祭り』には満面の笑顔で、積極的に参加してくれましたね」(鹿児島市東京事務所・樋口和弘所長)。気さくなエピソードのほんの一部だ。奄美でも、奄美市名瀬の児童福祉施設・カリタスの園白百合の寮を訪れた西郷さんが、野球部へユニホーム15着を寄贈する様子が16年に報じられている。近親者だけとされた葬儀だが、故人をしのぶ関係者、ファンが長蛇の列をつくった。

 「鹿児島・奄美のために、もっと長生きしてほしかったです」。そう哀悼を伝えると、遺族らはうなずき、頬には流れるものが光った。