105年目の「宇検村物語」~現場から~

宇検村が目指す観光を知る一冊、94年刊行「なぎ物語」(新元一文氏提供)

「感じる観光、内なる観光」
村史年表から読み解く村の現在とこれから

宇検村の公式ホームページには、1609年の島津軍の琉球侵攻に関する記述から始まる「宇検村史年表」が掲載されている。近世、近代から現代に至る同村の歩みが、村制100周年に当たる2017年までの年史が記載されており、その内容はほぼ1900年代以降、特に昭和後期、平成の時代に関する記述に紙幅が費やされている。

「宇検村誕生」と記された1917年は「11月 焼内村を宇検村と改称し、宇検から屋鈍までの14集落で構成。役場を湯湾に移す」とある。和暦でいえば大正6年、世界では「ロシア革命」が起きた年だが、このころにはすでに、今我々が知っている自治体「宇検村」が姿を現している。改めて、この記述部分だけでも、全国でも稀であろう「100周年」を迎えた村制の意味を考えるきっかけになると同時に、同村へ畏敬の念を抱かせる年史冒頭の表記と言える。 

年表を続けて順に追っていくと、いくつか興味深い出来事が確認出来る。特に目を引いたのが70、80年代、00年代に起きた以下二つ。一つは、73年「東亜燃料工業が枝手久島に石油精製工場を建設する計画を表明」とあり、その11年後の84年10月 「東亜燃料工業が枝手久島石油基地進出を断念」とある、同村焼内湾にある群島一の大きさを誇る無人島を巡る話だ。

11年もの間、もしくはその前後に何が起きたのか、その経緯に関する記載は年表上にはない。しかし一つ言えることは、以降村内に石油基地は作られなかった、無人で手つかずのままの枝手久島の姿を村は選択したという事実であり、それは当時の詳細を知らずとも許される結果論、解釈となるだろう。

もう一つは、2004年2月 「奄美大島地区法定協議会発足(名瀬市・笠利町・瀬戸内町・大和村・住用村・宇検村)。合併について協議」、翌年05年2月 「宇検村が奄美大島地区法定協議会から離脱」とある、当時の6市町村による統廃合に関する「平成の大合併」のころの記述だ。

しかし、これも結果論、個人的解釈が加わるが、同じく年表にある07年11月「村制施行90周年記念式典」という記載を踏まえると、宇検村は当時、合併による行政の利便性、効率化よりも、先人たちから文化、伝統を継承した証にもなろう「90周年」という節目を迎えるべく「村制維持」を決断し、協議を離脱したという「物語」をつい描きたくなる。そんな理想論だけで行政が、協議離脱などの判断をするわけがないだろうが、「村制100周年」と銘打たれた年表を前にすると、枝手久島を巡る話とともに、紆余曲折を乗り越えて、村を守り抜き今に至ったというストーリー、「宇検村物語」が自ずと頭に浮かんでくる。

そんな「宇検村物語」を描きつつ、年表から離れ、22年現在の宇検村に目を向けると、4月に開館したばかりの観光交流拠点施設「ケンムンの館」の存在が、その線上に浮かびあがる。そして、同館指定管理者(一社)「巡めぐる恵めぐる」代表理事・新元一文氏が打ち出した、宇検村観光の地域デザイン「見えないモノを感じる観光」へとつながる。この言葉の意味を、改めて新元氏に尋ねると「30年前に先人が残した観光概念」とする、焼内湾をテーマに写真と文章でまとめられた『なぎ物語』(94年発行、同村振興育英財団)を紹介。そこに書かれた一節「シマ(集落)の人たちが『内なる観光』と感性を開発して、我が焼内湾の美しさを誇ることがいまとても大切に思えるのです」を挙げた。すでに、そんな「内なる観光」を具現化したと思われる、同館の企画第一弾が今月1日、同村内にある6体のケンムン像を巡る体感型ゲームとしてスタートしているが、この言葉は、私が「宇検村史年表」を元にここまで巡らせた「宇検村物語」の根幹に触れる言葉だと感じた。

ただ、取材内容を明確な「書き言葉」に置き換える作業が必須の一記者として正直に申せば、大変「美しさ」が伝わると同時に「未知数」な観光事業の概念だと感じるのも事実で、村担当記者としては、今後の展開を見守るしかない部分もある。しかし、「未知」という言葉には「可能性」という意味も含まれると考える。そして、そんな「可能性」にあふれた観光に取り組む姿こそ、今年村制105周年を迎える「宇検村物語」の現在を織りなしているのだろうと理解した。

いずれ改訂版の「宇検村史年表」には、今年22年に起きた出来事として、同館の新設に関する記述が載るだろう。そして加えて「見えないモノを感じる観光が『無形文化遺産登録』へ」といった記述がされる日も来るかもしれない。そんな「物語」の続きを期待とともに想像しつつ、同村の「可能性」をこれからも取材し、伝えられたらと思う。(西直人)