犠牲者の冥福を祈る参列者たち
戦禍記憶、平和継承誓う
遺族13人、犠牲者悼む
奄美市笠利町中金久の防空壕跡地で6日、1945年8月6日に米軍機による空襲で亡くなった40人を弔う「慰霊祭」があった。市内、龍郷町、喜界町の遺族ら13人が参列して犠牲者を悼み、戦禍の記憶と平和の継承を誓った。
遺族らでつくる赤木名慰霊碑会(里斉亮会長)が主催。慰霊碑は笠利公民館敷地内裏の山裾にあり、1975年に遺族らが寄付金を募って建立した。
同会によると米軍機は、広島へ原爆を投下した同日の午後1時ごろに襲来。防空壕を爆撃し、避難していた地元住民や青年学校の生徒、教員など1歳から74歳までの男女40人全員の命を奪った。
防空壕は縦6㍍、横3㍍、高さ2・5㍍のコの字型で、当時の所有者・築島吉介氏の名前を取って「吉介壕」とも呼ばれた。遺族によると、避難していた人の左半分は即死、右半分は土砂崩れで生き埋めになり亡くなったという。
慰霊祭では、慰霊碑や納骨堂に向かって黙とう。花や線香を手向け、犠牲者の御霊へ手を合わせた。
教員だった母を亡くした喜界町阿伝の晶貴輝也さん(88)は数年ぶりに参列。「当時11歳で離れて暮らしており心配だった。悲惨な戦争を忘れることなく引き継いでいかなければならない」と話した。
里会長(45)は「出来事を風化させず、若い人にも伝えていくことが大切。率先して取り組んでいきたい」と話した。