~戦後77年~平和の大切さ次世代へ

特攻隊の中継基地だった浅間飛行場跡に建つ平和慰霊碑(天城町役場提供)

■特攻の中継基地■
生還は許さない

多くの命が犠牲となった太平洋戦争が終結して77年。今年も「終戦記念日」が近づいてきた。出征した夫に代わり苦労して子どもたちを育てた妻、優しかった姉の記憶をたどる妹、父が戦死した場所を訪れる息子―。昭和という時代が終わり、平成から令和となって迎えた鎮魂の夏。平和の大切さを次世代へ伝えたい。

徳之島・天城町の平和通りと呼ばれる直線道路そばに、平和慰霊碑が建っている。旧陸軍浅間飛行場跡だ。終戦から30年後の1975年(昭和50年)に建立され、住民らが亡くなった飛行兵を慰霊するとともに、不戦の誓いを新たにしている。

天城町誌などによると、浅間飛行場は、南西諸島の防衛強化が叫ばれていた43年(昭和18年)10月に測量などが始まった。日本軍は、与論島から沖永良部島、奄美大島などの住民を動員し、滑走路などを突貫工事で造り上げた。

飛行場の外には兵舎や倉庫、事務室、整備室などを設けた。工事の途中、南側の瀬滝集落にも造ろうとしたが、戦局悪化などで浅間飛行場の建設を急いだという。

44年(昭和19年)3月に長さ1500㍍、幅60㍍の滑走路を設けた飛行場が完成する中、45年3月下旬からは沖縄本島への上陸を狙う米軍の空襲が激しさを増していった。

飛行兵らは、陸軍特別攻撃隊(特攻隊)の出撃拠点だった鹿児島県の知覧飛行場から戦闘機などに乗り込み、機体に250㌔爆弾をつり下げ、米軍艦艇に体当たりするため沖縄の空へと向かった。浅間飛行場は特攻機の補給などで中継基地ともなっていた。

45年4月、米軍が沖縄本島に上陸したのを受け、飛行兵らは特攻隊の一員として知覧などを出撃。米軍艦艇などを攻撃する作戦で南方へと前進したが、奄美群島の上空で米軍戦闘機などに攻撃されて機体を損傷、爆弾を海に捨て、浅間飛行場などに不時着するのも少なくなかった。

機体トラブルなどで特攻を果たせず、帰ってきた隊員らは福岡県の第6航空軍司令部にある寮に移送された。そこは特攻生還者を収容する特別な施設だった。

上官らは、生還者の収容施設である寮に隔離軟禁。生還したことを厳しく非難し、竹刀などで殴打した。

戦勢が傾く日本軍の考えは「一億玉砕」であり、「一億特攻」。生きて帰ることは許されなかった。「そんなに命が惜しいのか。死んだ軍神に恥ずかしくないのか」―。怒声を浴びせ、軍人勅諭の書き写しを延々と命じた。

外部との接触が禁じられた若い隊員らは「帰還は命令だったのではないか」と腹の中で叫んだが、上官らの暴力と制裁は続いた。

太平洋戦争末期の沖縄戦では、鹿児島県知覧、万世、鹿屋、徳之島などの基地から出撃命令が下り、多くの若い命が失われた。

米軍の沖縄本島侵攻によって、奄美群島も戦場となり、住民や家屋などが被害に遭った。近海では学童疎開船などが潜水艦に撃沈され、子どもたちも犠牲となった。奄美周辺も海や空から攻撃を受けた。

戦後生まれの森田弘光・天城町長(71)は言う。

「戦争を経験した人が本当に少なくなっている。残酷さや悲惨さが、時の流れの中で忘れ去られようとしている。教訓を風化させることなく、平和の尊さを後世に語り継ぐのも、私たちの役割の一つだろう」

■南西侵攻計画■

砲撃を受ける喜界島(沖縄県公文書館所蔵)

記憶、記録を伝えたい

激しい地上戦となった沖縄戦は、米軍が1945年(昭和20年)3月26日に慶良間諸島に上陸して始まった。4月1日には沖縄本島中部に上陸し、南北に分かれて侵攻した。南に進んだ米軍は日本軍の本部があった首里城を攻略した。

5月下旬、沖縄本島は住民を巻き込んだ激しい戦場となった。日本軍は南部へと撤退し、多くの人が犠牲となった。

米軍が沖縄を含む南西諸島への侵攻計画で力を注いだのが、島々を氷山に見立ててそれをたたきつぶす「アイスバーグ作戦」だった。

44年当初、米軍は台湾攻略に注力していたが、フィリピンを侵攻した結果、基地を確保する見込みができたため、台湾ではなく南西諸島を占領し本土攻略の足場とする作戦の立案に動いた。

この計画には三つの特徴があった。①慶良間諸島と沖縄本島南部などを攻略し、日本本土への上陸作戦の基地を建設する②伊江島を占拠して沖縄本島北部を制圧する③南西諸島の占拠範囲を拡大する―というもの。

その中には、本土上陸を視野に入れた喜界島上陸作戦計画が記されていた。

「チャーリー」「エーブル」「ベイカー」と三つの作戦地図を作成して各部隊に配布。航空撮影とみられる戦術用地図には、集落の地名や攻撃の指定方向などが事細かく記されていた。

地図によると、赤連地区を「ビーチレッド」、湾地区を「ビーチグリーン」、志戸桶地区を「ビーチイエロー」、早町地区を「ビーチブルー」などとしている。

エーブル計画は、早町地区方面などから艦艇で連隊を送り込み、百之台周辺を経由して前進する。チャーリー計画は湾、赤連、池治地区方面などから艦艇で上陸する戦略であった。

米軍は徹底した喜界島情報の収集、分析を行い、地図を作成していた。リストに「17 ・MAY・1945」などと書かれているのは作戦開始日だったとみられている。  

米軍は、アイスバーグ作戦の後、南九州に上陸するオリンピック作戦、関東上陸のコロネット作戦を計画していた。作戦名の由来は不明だが、アイスバーグの後、オリンピックで「金メダル」を獲得し、コロネットという「王冠」を手にすることを描いていたのではないか、と推測されているという。

沖縄戦では、住民を巻き込んだ戦闘が3カ月以上続き、子どもやお年寄りを含む多くの人が亡くなった。沖縄本島南部の糸満市にある摩文仁=まぶに=には平和祈念資料館や平和の礎=いしじ=などが建ち、平和と不戦の誓いを発信している。

アイスバーグ作戦などに詳しい元沖縄国際大教授の吉浜忍さん(72)は「喜界島上陸が計画されたのは海軍の飛行場があり、そこを攻めて次のオリンピック作戦に展開するためだったのではないか」などと分析。「戦争の記憶や体験者の証言などを記録として残し、後世にきちんと伝えていくことが大事。そのための努力をしていかなければならない」と語った。

■奉安殿■

旧秋名小学校の奉安殿(龍郷町)

過去を知る教材に

1947年(昭和22年)に国民学校に入学した。朝、学校に行くと校門前で右向け右をして、建物に最敬礼した。それから教室に向かった。学校から帰る時も同じように頭を下げてあいさつした。

その建物は、「奉安殿」と呼ばれた。

龍郷町文化財保護審議委員会の窪田圭喜会長(81)は「戦争は終わっていたが、先輩たちがあいさつしていたことで教わった」と振り返る。

奉安殿は、太平洋戦争が終わるまで国内の学校などに建てられた。天皇、皇后両陛下の肖像写真「御真影」と、当時の教育理念である「教育勅語」を守る場所だった。

教育勅語は1890年(明治23年)に発布され、「親孝行」や「きょうだい仲良く」といった教えが記されていた。小学校などに配られていたが、1948年(昭和23年)に国会が排除・失効を決議した。

奉安殿も、国家神道を廃止しようとする連合国軍総司令部(GHQ)の指令で撤去、解体が進んだ。

龍郷町幾里にある旧秋名小学校の奉安殿は1938年(昭和13年)に建てられ、保存されている。近くにある案内板は、鉄筋コンクリート製で幅約3・36㍍、奥行約3・03㍍、高さ約5・05㍍。高欄や階段を備えた神社様式。戦後、神道の象徴とみなされ各地で撤去が進められたが、撤去を免れた―などとしている。

窪田会長は「奄美大島北部では唯一の建物であり町の文化財。昔から崇拝してきた建物の一つであり、補強したりして大切に残していきたい」と話す。

「奄美大島での奉安殿造りは鹿児島県内全体の各学校のなかでは早い方だった」と記すのは、奄美カトリック迫害と天皇教『聖堂の日の丸』の著者で、鹿児島大非常勤講師の宮下正昭さん(66)。

学校の記念誌などを調べた宮下さんによると、昭和天皇が来島した27年(昭和2年)10月、大島中学校に奉安殿が完成。28年2月に名瀬尋常高等小学校、11月には名瀬尋常小学校に落成しているという。

宮下さんは「校舎は老朽化していても校庭の一角に強固なコンクリートの小屋だけは本土に誇れた。県本土より皇民化教育がより早く進展した形とも言えた」とつづる。

戦後、奄美群島の奉安殿も校舎建設などに伴い多くが解体されたが、移設などにより、撤去を免れた例もある。大和村のホームページなどによると、今里小中学校の旧奉安殿は、2007年(平成19年)12月に国の有形文化財として登録された。

宮下さんは「奄美群島の学校などにも奉安殿が設けられていたという事実や、当時の住民が軍国主義に染まっていたという過去を知るための教材としても、残していくべきだと思う」と話している。
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戦後77年。戦争体験者の高齢化などが進み、奄美でも戦時の出来事を知り、語る人が少なくなった。きょう「終戦の日」。戦なき世を願い、平和の大切さを次世代につなぎたい。(亀山昌道)