子どもと地域を見守り半世紀

薩摩川内市の市民表彰を受けた赤﨑さん
赤﨑さんは50年以上に渡って通学路の見守り活動を続けている

薩摩川内市の川内奄美会・赤﨑さん(笠利町出身)
「人の役に立つ人に」亡き母の言葉を胸に

【鹿児島】川内(せんだい)奄美会事務局長の赤﨑ツギ子さん(78)は今年の1月に薩摩川内市から教育文化部門の市民表彰を受けた。50年以上にわたって同市内の交差点で子どもたちの通学路の見守りや、子供会などの地域のボランティア活動に取り組んでいることなどが評価された。赤﨑さんの原点には、小学生の頃に亡くなった母・シズエさんの言葉があるという。

赤﨑さんは奄美市笠利町の出身で、兄2人、妹4人、7人きょうだいの家庭で育った。小学6年生の頃、一番下の妹が生まれた直後にシズエさんが他界。亡くなる直前の枕元で「きょうだい仲良く、人の役に立つ人になりなさい」と言われた一言が今でも忘れられないという。

中学卒業後に大阪の食品会社に就職。入社して間もない「言葉もよくわからなかった頃」出社して腹痛がひどくなり、職場の先輩女性に連れられた先の病院で急性盲腸と診断された。

しばらく入院していた時期に仕事を終えた先輩が連日見舞いに来て世話をしてくれた。その親切がうれしくて何かお礼をしたいと言うと「恩返しは自分ではなく、あなたの子どもや孫、将来の子どもたちにしてあげて」と言われたという。

18歳で同じ会社の調理師でいちき串木野市出身の孝二さんと結婚。1971年に孝二さんが転職したのを契機に薩摩川内市に転居した。長男・卓也さんが小学校に入学した頃から通学路の見守り活動を始めた。

午前6時50分から8時過ぎまで、同市の国道3号線と267号線が交わる交通量の多い交差点で毎朝登校する小中高校生らを見守る。卓也さん、次男・健二さん、長女・友加さんが卒業した後も続けているのは、亡き母や大阪の先輩の言葉が忘れられないからだ。

ただ見守るだけでなく、あいさつがしっかりできない子、服装が乱れている子には厳しく指導することも。「子どもたちには『怖いおばちゃん』と思われています」と苦笑する。元気にあいさつしてくれた子には「きょうも元気をもらった。ありがとう」と応えている。

友加さんが小3になった頃からバレーボールのクラブチームを立ち上げ、今では子どもから大人、高齢者のソフトバレーの指導にも携わっている。子供会の世話人も長年関わっており、夏休みは朝のラジオ体操に毎日顔を出す。「夏休みは毎年お金がかかる」のは皆勤賞の子への図書券のプレゼントや、折々のご褒美のお菓子や焼き肉会を開く費用などがかさむからだ。

今回の市民表彰は「夫や家族の理解があったからこそ」と感謝する。今見守っている小中高生たちの親が、かつて見守った子どもたち。「子どもたちから元気をもらう」ために、体力の続く限りこれからも交差点に立ち続けて、厳しくも温かい眼差しを子どもたちに送り続けている。