ソフトバンク4位指名 大野投手の生い立ち

龍南中時代の大野稼頭央

野球で遊び、培われた潜在力

 大島高初のプロ野球選手となった大野稼頭央投手はどのような生い立ちを歩んできたのか? 「名付け」の親でもある父・裕基さんら、ゆかりの人に聞いてみた。

 2004年8月6日、龍郷町で父・裕基さん、母・なつきさんの長男として生まれる。名前の由来は西武やメジャーリーグで活躍した松井稼頭央選手(現西武監督)。裕基さんがファンで「カッコ良くて響きも良かった」ので付けた名前だったが、特に将来プロ野球選手にしたくて付けたわけではなかった。

 裕基さんは大高野球部OB。年子の弟・幸乃進、三つ下の純之介、兄弟3人とも野球選手だが「子どもたちに野球を強制したことはない」と言う。稼頭央が野球を始めたのは戸口小1年の頃で、少年団のソフトボールだった。小3からは龍郷町の軟式野球のクラブチームにも入った。

 月、水、金はソフトボール、火、木、土は軟式野球、加えて木曜日には体操クラブにも通っていた。小学生の頃から野球が「遊び」であり、身体を動かすことが日常だった。

 いずれも親や周囲の強制ではなく、自身で選んだ道だった。「テレビゲームをするのが嫌で、稼頭央が欲しいといっても絶対買わなかった。遊ぶなら外で遊んでもらいたかった」と裕基さん。野球は「近所のお兄ちゃんや同級生に声を掛けられてついていきながら、自然にやるようになっていた」。

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 投手を本格的に始めたのは小6から。小5から稼頭央を見ている朝哲也さんが、外部コーチとして龍南中時代の3年間を指導した。「フォームがきれいで今とほとんど変わらなかった」のが第一印象。自身が肩、肘の故障で悩んだ経験があったので、稼頭央にはまずけがをしないよう、理にかなったフォームで投げ続けられるようにシャドーピッチングを毎日繰り返してチェックしたという。

 ポイントは「肘が肩より下がらないようにする」こと。カーブ、スライダーなど変化球を覚えるようになると、小指や人差し指に力が入ってしまうことで、肘に負担がかかり故障するケースもあるので、「変化球も直球と同じように中指、人差し指にかけて投げる」ことを指導した。

 稼頭央の特徴は身体能力の高さに加えて「教えたことをすぐに吸収できる」ことだった。ちょっとしたコツを教えるだけでどんどん投手としての技術を習得していくので「稼頭央と練習するのは楽しかった」。

 中学時代、県大会の実績はないが、3年生の頃、対馬であった離島甲子園に龍郷選抜で出場し、ベスト4に入った。奄美市選抜も同じ4強に入り「このメンバーが島に残ってくれたら甲子園も夢じゃないかも」と朝さんは思った。

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 高校進学では、鹿児島実高など本土の強豪私学からも熱心に誘われ「本人の中では9分9厘、鹿実に行くと決まっていた」と裕基さん。それを覆したのは、同い年で金久中の捕手だった西田心太朗の熱心な誘いだった。

 3年前の10月末頃、大野家と西田家で会食の機会を持ち、稼頭央と心太朗の2人で話をした後、大高に行くことを決めたという。

 高校進学後の活躍は周知の通りだ。1年秋からエース番号を背負い、2年秋に鹿児島大会優勝、九州大会準優勝で3年春のセンバツ出場をつかんだ。惜しくも夏の甲子園出場は果たせなかったが、離島勢初の決勝進出に大きく貢献し、夏の鴨池を盛り上げた主役の1人だった。夏の甲子園に行けなかった悔しさを胸に秘め、ソフトバンクから4位指名を受け、夢のプロ入りを果たした。

 「このまま身体が大きくなれば、プロにいけるぞ」と中学時代、朝さんは稼頭央に話していた。中高の6年間で故障らしい故障がなかった。「とにかく故障することなく、身体の線が太くなってくれば」プロでも活躍できる投手になると朝さんは期待している。
(政純一郎)