復帰運動〝陰の功労者〟への書簡公開

「盛郷重廣宛泉芳朗書簡」の町有形文化財指定を発表、その内容も初公開=11月30日、伊仙町

 

 

 

 

 

芳朗氏の心情・焦燥感も
「盛郷重廣宛泉芳朗書簡」文化財指定
伊仙町

 

 

 【徳之島】伊仙町教育委員会は30日、泉芳朗(本名・泉敏登)氏=同町面縄出身=が奄美大島日本復帰協議会議長・名瀬市長当時の1953(昭和28)年3月、東京で米国大使交渉の機会設定など復帰運動を裏で支えた盛郷重廣(せいごうしげひろ)氏=同町面縄出身=にあてていた直筆の手紙を「盛郷重廣宛泉芳朗書簡」として町有形文化財に指定したと発表。復帰実現の年のわずか9カ月前の〝米大使更迭で焦った〟泉氏の心情など、その手紙の内容も初公開した。

 泉芳朗氏は奄美群島日本復帰運動の中心的指導者として、120時間に及ぶ断食祈願を敢行したことから「奄美復帰の父」「奄美のガンジー」とも呼ばれる。出身地の伊仙町は97年7月に名誉町民の称号を付与、義名山公園には全国募金で「泉芳朗頌徳(しょうとく)記念像」も建立されている。

 泉氏と同郷の盛郷重廣氏とは、伊仙町誌によると「警視庁に勤務し、数年後には実業界に転じて建材業を営み、業界で頭角をあらわし、巨額の富を築いた立志伝中の人。東京で陰の人として、復帰陳情に上京した泉議長一行を松野鶴平参院議長に面会あっせんしたり、米国のマーフィー駐日大使と対面する機会をつくった人」。さらには「盛郷さんと友人(通訳)の陰の協力がなければ、米大使との折衝はあんなに大きな成果を上げれなかったのではあるまいか。忘れてはならない人たちである」(稲田敏夫氏)と伝える。

 町教委(榎本美里学芸員)によると、泉芳朗氏が盛郷重廣氏にあてていた直筆の手紙(名瀬市便せんに毛筆で3枚)は盛郷さんの長女石川八重さん(90歳代)=今年1月死去=が生前父の遺品整理中に発見。昨年9月、親せきを通じ同町歴史民俗資料館に寄贈の打診が。手紙の内容を調査した結果、同資料は「伊仙町だけでなく奄美全島における日本復帰を語る上で貴重な手紙」と判断して町文化財保護審議会(義岡明雄会長)に諮問。答申を得て町教委は11月17日付で指定した。

 榎本学芸員(35)は「奄美群島が日本復帰する歴史の裏側では語られることの少なかった一連の復帰運動が、現実的に捉えられ、年表からは読み取れない、当時の泉芳朗氏の心情が表れている貴重な資料」。さらには「日本復帰の裏側で活躍された盛郷重廣氏の功績を評価するための資料ともなる」と強調する。

 今後、町歴民館内に泉芳朗特別コーナーを設けるほか、来年4月の町制施行60周年式典での展示を計画。群島内各市町村教委と連携した巡回展示(協力)も検討する方針だ。

 会見に同席した大久保明町長も「歴史を正確に掘り起こす作業は価値がある。復帰運動の裏で米国大使と交渉するとは相当の覚悟も必要で、復帰に大きく近づける会談だったのでは。寄贈によって歴史の真の姿を学ぶことができる」と話した。