「奄美大島要塞跡」国指定文化財に

国指定文化財として答申された「奄美大島要塞跡」の構成遺跡である上から西古見砲台跡(第2砲座跡・第1砲側庫)、安脚場砲台跡(全景)、手安弾薬本庫跡(第3弾薬庫跡の内部)=いずれも瀬戸内町教育委員会提供=

西古見砲台跡、安脚場砲台跡、手安弾薬本庫跡の3遺跡

国の文化審議会(佐藤信会長)は16日、瀬戸内町の近代遺跡(軍事遺跡)「奄美大島要塞跡」を国指定文化財に指定するよう永岡桂子文部科学相に答申した。他に鹿児島県関係では「鹿児島城跡」(鹿児島市)の追加指定・名称変更もあり、今回の答申で県内の国指定文化財(史跡)は33件となる見通し。官報公示を経て正式決定だが、同要塞跡の構成遺跡のうち西古見砲台跡、安脚場砲台跡、手安弾薬本庫跡の3遺跡が瀬戸内町初の国指定史跡となる。

近代遺跡 瀬戸内町初の国史跡

同町教育委員会社会教育課(町埋蔵文化財センター)によると、奄美大島要塞跡は、奄美大島と加計呂麻島に挟まれた大島海峡東西口を中心に建設された旧陸軍の要塞跡。1921(大正10)年に砲台建設が開始され、世界情勢に即した国防施策により、断続的に建設が継続された。大島海峡防備のため築かれた要塞は、その後、アジア・太平洋戦争終結まで使用されたという。

町教委は埋蔵文化財の国庫補助事業を活用し、2014年度から21年度にかけて町内近代遺跡分布調査を実施。それにより3遺跡が国指定史跡に指定されることになったが、国の文化審議会からは「奄美大島要塞跡は、大島海峡付近に要塞の遺構(施設跡)が集中的に残存し、要塞全体の理解が可能であり、ワシントン海軍軍縮会議や太平洋戦争の開始など近代日本の国防施策と密接に関係する遺跡群であることから、日本の近代史を理解する上で重要な遺跡」と評価された。

奄美群島にある国指定史跡は、▽宇宿貝塚(奄美市笠利町)▽カムィヤキ陶器窯跡(伊仙町)▽住吉貝塚(知名町)▽赤木名城跡(奄美市笠利町)▽小湊フワガネク遺跡(同市名瀬)▽面縄貝塚(伊仙町)▽城久遺跡群(喜界町)。奄美大島要塞跡が正式に決定すると8件目となる。

国指定史跡となる3遺跡の概要は次の通り。

【西古見砲台跡(にしこみほうだいあと)】奄美大島の西端に所在。1921年に砲台建設が開始され、40(昭和15)年に28糎榴=せんち=弾砲が配備された。現在、4基の砲台、砲側庫、砲台弾薬庫などと、2基の観測所がある。第2観測所は公園化されている。

対岸の実久に設置された砲台とともに、大島海峡西側からの敵艦の侵入を防ぐ役割を果たしていた。奄美大島要塞の中で実際に大砲が設置された箇所であり、大島海峡を防備する上で重要な地域だったと推測されている。

【安脚場砲台跡(あんきゃばほうだいあと)】加計呂麻島の東端の渡連に所在。1921年に砲台建設が開始され、旧陸軍撤退後は、旧海軍により使用された。大島海峡東口より侵入する敵艦を阻止するため、海峡東口の海中に管制機雷を設置し、衛所で聴音、監視を行っていた。

現在、旧陸軍建設の砲座4基、砲側庫などと、旧海軍建設の衛所などがある。公園化されており、施設を見学できる。

【手安弾薬本庫跡(てあんだんやくほんこあと)】奄美大島側の手安に所在。1931(昭和6)年ごろから、奄美大島要塞全砲台用の弾薬庫として建設された。

弾薬庫は3基建設され、いずれも「洞窟式」で、内部は2重構造となっている。第2および第3弾薬庫は連絡通路でつながる形状。現在、第2および第3弾薬庫を見学することができる。