歴史の伝承 未来へ(中)

復帰までの当時の暮らしが「究極のSDGs」「結い・普請社会」「非グローバル社会(自給力)」の原点と捉える花井恒三さん

復帰までの8年間「SDGsの原点」

日本復帰の実現まで8年間続いた米軍政下、人々はどんな暮らしだったのだろう。

伝承する会が発行した『子ども読本(復帰65周年)』では、Q&A方式で記述している。「米軍の配給物資は、最初の1年は無料配給でしたが、あとは有料でした。昭和24(1949)年にその有料配給物資価格が一挙に3倍値上げにするとの発表があり、値上げされたら生活できないと、復帰運動につながるきっかけとなりました」。無料から有料へ、さらに大幅な高騰。母国から切り離され、異国の権力下となり服従を強いられ、翻弄される当時の厳しい実態が浮かび上がる。

その一方で生きるための工夫も。「農村地区から名瀬へはサツマイモ、野菜を物々交換用に持って行き、名瀬から農村地区へは仲買人が農産物を買いに来ました。名瀬からの品物は、げた、服、シャツ、作業服などがあり、農産品と換えました」「米軍配給のメリケン粉袋などをほどいて、下着や体育シャツを作っていました」「シャンプーは、ハイビスカスの葉のしぼり汁でした」。

こうした実態を花井さんは「SDGs(持続可能な開発目標)の原点」と表現する。「昨年夏から秋にかけて、台風が連続して発生・接近すると鹿児島からの定期船が長期欠航し、それにより物資が届かなくなる。たちまち『牛乳やパンがない』『生鮮食料品がない』と右往左往してしまう。復帰までの8年間、当時の人々は外との接触を禁じられる鎖国状態にさらされた。外から物資がこない。では、どうするか。物資を生み出す知恵によりしのいだ」。

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自給力により島内で産出した物を島内で消費していく「地域循環型経済」だ。現在の奄美市に置き換えるとこうなる。笠利や住用の人は農作物など食料品を担ぎながら歩いて名瀬まで行き、市場で名瀬の人々に販売した。そこで得たお金で名瀬にしかない物(しょうゆ、石油など)を購入した。現在にも通じる商業地(売買地)と、その周辺に農村部(供給地)が形成されたことになる。

生活の工夫は助け合いにも表れた。お馴染みの「結い」、それに「ヤブシン(家普請)」という言葉があった。当時の民家はかやぶき屋根。台風などの強風や暴風が吹き荒れると、植物であるかやは吹き飛んだ。そこで「ヤブシンを、結いで、一戸一戸交代で作業した」。

「屋根のふき替えだけではない。みんなで協力して作業する普請により道路も造った。当時の役場は機械を貸すだけ。やれることは自分たちで。そんな精神があった。今は何でも行政に求め、頼ることを優先してしまった」。花井さんは当時をSDGsだけでなく、「結い・普請社会」「非グローバル社会(自給力)」の原点期と捉えている。

人材創出の原点も加わるかもしれない。名瀬の商業で考えてみよう。戦前の経済を支えたのが「寄留商人」だ。県本土だけでなく大分や関西などから、いわゆる本土資本進出の形で名瀬の中心部の通りに呉服店などを構えた。

本土資本の進出も敗戦を契機に一変する。奄美が日本から切り離され、米軍政府の統治下におかれるということで、こうした寄留商人は本土に引き上げた。穴埋めするように商売を引き継いだのが、「丁稚奉公」などとして働いていた地元の人たちだ。商売や経営の在り方を熱心に学び、才覚を吸収していた人々が、今度はより地元のニーズに応える形で現在の「イノベーション(技術革新)」のように新たな商いを見出だした。

「これまでの経験を生かし、やれることは自分でやるしかないという姿勢が発端となり地元人材が育った。今は商業だけでなくさまざまな産業で本土資本に頼るから地元人材が育たない。デジタル産業であるIT関係も地元企業は下請けが主体。外に頼る、依存する、求めるのではなく自分たち、島内で何とかするという姿勢を見習うべき。こうした意識の高さも根底となり、復帰後に正規資格を取得し、公務員、教諭、医師などになる人材が育った」。花井さんは指摘する。

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当時の暮らし、そして復帰運動にも学ぶべき意義がある。まず、どのような人がリーダーとなったか。花井さんは解説する。「復帰運動を先行したのは民主勢力(革新勢力)だった。ところが、こうした勢力の中から『自分たちが先頭に立つとアメリカににらまれる』として中庸の人、文人型リーダーを押し出す動きが出た。このリーダーが泉芳朗氏だ。中庸の人がリーダーになったことで保守系も加わり、やがて保守勢力が表に出るようになった。保守も革新も政治的なイデオロギーを超えてまとまったから、住民運動として成功したのではないか。当時、縦割りが入っていない。保守も革新も横でつながった」。

沖縄とは米軍基地の存在という違いがあるかもしれない。沖縄の場合、民主勢力(革新勢力)と保守系が一体となった運動に弱かった。奄美はどうだろう。バランスを重視した中庸の人がリーダーとなり運動を横へと拡げた。「奄美は反米運動に非ず民族運動」を掲げ、「日本復帰」(祖国復帰、母国復帰)のスローガン打ち出した。群島民の心が一つになる。ここへたどり着く運動の在り方が、統治者(米軍)の心情に変化をもたらした。