北緯30度以南行政分離「二・二宣言」

奄美群島の日本復帰運動を伝承する会発行資料より

復帰史全ての始まり
GHQ「国民に知らしめた日」

 77年前の1946(昭和21)年2月2日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による覚書として宣言されたのが「二・二宣言」だ。日本の領域のうち屋久島の南、口之島(十島村の玄関口)を境にした北緯30度以南の南西諸島は小笠原諸島と共に日本から行政分離、米軍政府の統治下に置くというもの。「奄美群島の復帰史の全ての始まり」と捉えることができ、日本復帰70周年の今年、歴史的な位置付けがあらためて問われそう。

 「二・二宣言」により、行政分離の対象となったのは大島郡十島村、奄美群島、沖縄諸島。このうち十島村=じゅっとうそん=は上三島(竹島、黒島、硫黄島)と下七島(口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小宝島、宝島)に分断され、現在、上三島は三島村=みしまむら=、下七島は十島村=としまむら=の行政組織となっている。

 日本本土と分離されたことから、「奄美の歴史的転換」「奄美にとって、永久に忘れてはいけないGHQ指令」。こんな認識を打ち出した復帰の記録もある。奄美群島の日本復帰運動伝承へ歴史検証に取り組む花井恒三さん(75)=奄美市名瀬=は、「二・二宣言」について、宣言までの段階から1月27日を「指令発令日」、同29日「奄美へ通告日」、2月2日はNHKラジオや全国紙で「国民に知らしめた日」と分ける。27日はGHQによる日本政府への指令発令、29日は沖縄基地司令官兼軍政府長官だった少佐ら一行6人が名瀬入りし、当時の支庁長に分離を内示(事前通告)。「事前通告を受けて大島支庁ではさまざまな会合が招集された。この段階では一般国民、群島民は行政分離をまだ知らず、公開日の2月2日は『知らしめた日』と受け止めることができる」(花井さん)。

 日本本土から切り離されることが宣言された「二・二宣言」。これを機に戦前の奄美経済を支えた寄留=きりゅう=商人が鹿児島本土などに引き揚げたほか、県や国の出先機関に勤務する公務員、教員ら本土出身者も奄美群島から離れた。当時の公務員数について「大島支庁の148人をはじめ相当幅にのぼった。このうち本土出身者は支庁長以下全体の約2割を占めた」という記述もある。

 宣言後、実際に米軍政下に置かれるという布告(米国海軍軍政府特別布告第2号)があったのは1カ月後の3月に入ってからで、13日には大島支庁内に軍政府が設置された。花井さんは「通貨のB円への切り替え、北緯30度線の海上封鎖、大島支庁長の米軍任命、米軍政府の開庁など復帰まで続く米軍政府統治時代の始まり。宣言はスタートラインであり、奄美の歴史上、とても重要なこととして語り継いでいく必要がある」と指摘する。

 奄美群島の日本復帰が実現したのは7年後の12月25日。ここに至る復帰史の中で、「二・二宣言」と「復帰の日」前後に何がどのように変わったか、「この二つの歴史の岐路を検証し続けなければならない」。花井さんは語った。「『二・二宣言』以降の米軍政下で奄美の人々は身もこころも踏みつけられた。だが、それを復帰運動で示したように粘り強く跳ね除け、立ち上がり、踏まれるほど雑草のように強くなった。こうした島民性を学びたい」。

 (徳島一蔵)