赤木名の街と歴史を巡る

赤木名城跡で城の成り立ちを聞く参加者

景観が伝える特性
博物館歴史講座 江戸時代の仮屋・山城跡など

 2022年度奄美博物館歴史講座「赤木名の歴史・文化景観を巡る街歩き 景観から赤木名の過去―現在―未来を探る」が5日、奄美市笠利町で行われた。30人が参加。講師のほか大島北高校で地理を選択し、地域の歴史を学習した5人の生徒が説明にあたった。総勢40人以上が集落を歩いた。

 講師は、奄美観光大使を務める駒沢大学文学部地理学科教授、須山聡さん。須山さんは奄美全域を研究対象としており、02年にはゼミの学生を連れて約1週間、同地のカトリック教会や高齢者の行動を調査したという。今回は昨年11月に実施した「名瀬の街歩き」に続く企画。

 まず、「里秋葉神社」と国の史跡となっている「赤木名城跡」を訪れた。神社の入り口には、山からの湧水が泉となり生活に使われていた場所が残る(現在は木製の蓋で閉じられている)。参加していた里集落の出身者は、「ここから水をくむのが子どもの仕事だった」と話した。

 須山さんから「赤木名城は戦国時代の山城の構造。沖縄の石造り城塞グスクとは異なる。徳之島は二つが交わる地点」と説明があると、参加者はうなずきながらメモを取っていた。 代官仮屋跡を訪れると、大島北高校2年生、横田夕奈さん(17)が「赤木名は里・中金久・外金久3集落の総称で〝ハキナ〟といわれていた。集落内の細い道をナーミチ(中道)、川沿いの道をシャーミチという」などと研究内容を話した。

 須山さんは、「仮屋跡から左折した道がサトミチ。ここがメーンストリート。マキとゲッキツの2段構えで庭垣を作る赤木名の典型的な場所」と説明した。

 前田川に差し掛かると、「代官は川辺のガジュマルに船をつないでフカミチを通って仮屋に行った」「中金久には政治機能が集中し、島役人の屋敷も固まってあった。地理学では『奄美は鹿児島の内国植民地』という位置づけになっている」と解説した。

 外金久では、農家では禁止されていた門を、イヌマキの枝を水平に剪定=せんてい=して作った〝モンカブリ〟や、厚さ1・5㍍のサンゴ垣を観察した。

 町巡りを終えて、同市名瀬大熊から参加した女性(64)は、「知らないことがいっぱいあって楽しかった。ここはマンホールに集落の名前が書いてあるなど独特」と話した。

 妻・恵さん(30)の故郷にIターンした桜井孝祐さん(32)は、「通りの両側に競うように植木があり街並みがきれい。城の作りに深い歴史や文化があり、本土の影響を受けていることにも驚いた」と話した。

 須山さんは、「奄美の集落は、神山~神道~立神とワンセットで成り立っている。(名瀬)浦上の有盛神社も社殿の後ろに山城がある。神山に作られた(標高100・8㍍にある)赤木名城は、倭寇に対抗する〝逃げ城〟だった可能性も考えられる」と解説した。

 奄美博物館の資料によると、江戸時代、薩摩藩の統治下にあった奄美大島。1801(寛政13)年、現在大島支庁がある場所に「伊津部仮屋」(代官所)が移されるまで仮屋は転々とした。その間、赤木名地区は約22年間行政の中心地だった。同地には当時の文化が根づき、独特の街並みが残されている。