第60回富山丸戦没者慰霊祭 徳之島町

遺族団28人と地元関係者合わせ約130人が参加、4年ぶりにあった「富山丸戦没者慰霊祭」=19日、徳之島町亀徳

鎮魂と平和祈る
4年ぶり遺族来島

 【徳之島】太平洋戦争末期、沖縄戦線へ南下中の徳之島町亀徳沖で米潜水艦に撃沈され、将兵・乗組員合わせ3724人が犠牲となった輸送船「富山丸」の第60回戦没者慰霊祭が19日、同町亀徳「なごみの岬」公園の慰霊碑前であった。関東地区および5県の遺族ら参拝団28人と地元関係者ら合わせ約130人が参加。鎮魂の祈りと恒久平和の誓いを新たにした。

 輸送船富山丸(7500㌧級)は1944(昭和19)年6月29日、沖縄への増援部隊と燃料など物資を満載して同町亀徳沖約3㌔を航行中、米軍の魚雷攻撃を受けて轟沈。過密状態で乗船していた旅団将兵や船員・船砲隊員が船と運命を共にした。海上には大量のドラム缶(ガソリン)も流出して爆発炎上し、海上に逃れた人たちをも襲った。船舶関係では、タイタニック号(1912年4月)や戦艦大和・旧第2艦隊(45年4月)などと並ぶ第1級の惨事ともされている。

 コロナ禍により全国遺族・参拝団が来島しての慰霊祭は19年(第56回)以来4年ぶり。関東地区や高知・徳島・愛媛・宮崎・鹿児島5県の子や孫世代が参加。船舶利用者たちは、船会社側の配慮で沈没地点の亀徳沖海上を旋回して洋上慰霊祭も。「お帰りなさい」と迎えられた慰霊祭は午後2時、徳之島混声合唱団の「千の風になって」など合唱で開式した。

 同慰霊碑が建立(1964年6月、生き残り隊員三角光雄氏建立)されて以降、同地慰霊祭を支え続けている地元徳之島町当局の高岡秀規町長は祭祀(し)で、「戦争の悲惨さを後世に伝え、平和の尊さを子々孫々に語り継がねばならない。お互いの絆がいつまでも続くことを願います」。遺族会・参拝団代表の慰霊のことばで家木琢磨さん(79)=愛媛県松山市=は、父が丸亀駅で生後150日の自分を抱いてくれた11日後に亀徳沖で戦死したこと。母は父からの便りを待ち焦がれたまま43歳で他界した悔しさなど胸の内も報告した。

 各県遺族団ごとの献花と各代表の呼び掛けでは、「お父さんたちが亡くなった戦争は終わっていない。もっと世界中が平和で暮らしやすく、こころの通い合う世界に」との訴えも。引き続き慰霊碑建立と全国遺族会育ての親の故三角氏の顕彰祭もあった。

 参拝団を代表して関東地区遺族会の川南廣展さん(87)=東京都=は「コロナで3年間慰霊祭ができずに英霊たちも待ちわびたと思う。60回の節目に参加させていただき感謝。遺族(子世代は)80代になったが元気で続けたい。ロシアの侵攻では私たちのような子(遺児)も増えている。平和のため遺族会も次の行動を起こしたい」とも述べた。

 20日午後4時からは瀬戸内町森山公園で「富山丸戦没者古仁屋供養祭」も営まれる。