三七会が慰霊の集い

ナバ石の墓に献花や献酒を供えて手を合わせる参加者たち

 

 

名もなき戦没者を供養
笠利町津代古戦場跡

 

 1609年、琉球侵攻で南下した薩摩藩が上陸し戦闘したとされる奄美市笠利町の津代古戦場跡で30日、戦没者を追悼する慰霊の集い「水花香」が同地であった。参加者らは、名もなき先人たちに手を合わせ、奄美の転換点となった歴史の一端に思いを馳せた。

 有志が集う「三七=みな=の会」が主催し、上陸したとみられる旧暦3月7日ごろに毎年実施。市の指定文化財で、1997年の人骨発見以来、慰霊を続けている。

 『大奄美史』(昇曙夢著)などによると1609年同日、薩摩の軍勢約3000人が同地に侵攻した。鉄砲を所持して攻めてくる侵略者を相手に地元住民らは応戦。徳之島では300人が亡くなったが、奄美の犠牲者数は判っていない。

 跡地には、ナバ(テーブルサンゴ)石の墓の下に多くの犠牲者が永眠。同会によると、遺骨や古墓は野ざらしのまま見つかり、跡地一帯には未だ多くの遺骨が点在しているという。

 この日は、丘の中腹にある跡地に登り、沖縄県や東京都から来た参列者5人を含め20人以上が追悼。花を手向けたり、御神酒を捧げたりと犠牲者を弔った。

 沖縄県那覇市から参列した屋良朝助さん(71)は「(同侵攻を)奄美の人が琉球の防波堤になっていたと近年知り、参加しないのは失礼だと思い駆け付けた」と手を合わせていた。会ではシマ唄も奉納。同会の森本眞一郎代表は「(奄美は)権力者が来るたび、あらゆるものが搾取されてきた。何を守り、なぜ戦ったのか。意見は一人ひとり異なるが、歴史を考える契機になれば」と話した。弔い、歴史の継承を誓った。