首都圏で奮闘 出身者3人

多年にわたり郷土や社会に尽くす

 敬老の日の起源は、593年に聖徳太子が生活困窮者や老人向けに施設を開設した日、あるいは元正天皇が伝説に照らして、717年に元号を養老としたなど、さまざまな説がある。兵庫県のある村が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」との趣旨の下、1947年から農閑期の気候の良い「9月15日」を「としよりの日」として敬老会を開くようになったのが、現在の敬老の日の始まりとされている。多年にわたって郷土や社会に尽くし、首都圏で奮闘する3人をエピソードとともに紹介する。

(東京支局・高田賢一)


出身者らが開いた出版記念会で花束を贈呈される雪山渥美さん(隣は妻の光恵さん)

「幾多の苦難、妻の支えのおかげ」
文学への思い、自叙伝出版
雪山渥美(ゆきやまあつみ)さん(90) 徳之島・天城町出身

 文学を夢見て上京も挫折。さまざまな職業を経験する。

 「1956(昭和31)年、22歳の時に父親の仕事などで徳之島から居を移していた沖縄から文学を目指して上京。喫茶店ボーイから商社マンまで、幾多の職業と職場を流転し、最低生活をしながら、同人雑誌の同人になり、原稿と格闘したがものにならず、文学から挫折。家庭を持ち、子どもが生まれるとなおのこと、余裕がなくなり文学への夢は途絶えていきましたね」

 友人や元上司に恵まれて、やがて会社経営者の道へ。

 「小説を書く気を失い、失意のどん底に陥っていた私を、友人が心配して、彼の友人が始めたばかりのカークリーニング業に誘ってくれた。また前に勤めていた貿易会社の上司からオイル、ガスライターの仕事も紹介されました。その後、経営を始めてからは、必要に迫られて経済書、経営書を読み出した。文学雑誌を中小企業雑誌に切り替えたのです。読むと白紙に墨が染み渡るように身に染みた。決算書の見方も分かるように、利益が出ていた金が足りなくなる時の意味も理解できました。昭和52年4月、埼玉県蕨市に待望の額縁・画材の専門店を開業しました。『雪山堂』と自分の姓を取って店名を付けた時は、夢の実現を無邪気に喜びました」

 会社は息子に譲って会長に。2019年にはグッドデザイン賞を受賞。70を機に挑戦した絵は、展覧会でも才能開花。

 「文化庁ほかが後援、各地から250点以上の応募があった中から、奨励賞を頂きました。タイトルは、ずばり『プーチンとウクライナ』。3か月間構想を練り20号の白紙に向かった。漆黒の下地にプーチン露大統領が浮かび、戦禍の人々をその周りに描き、一刻も早い終戦を願いました。憎たらしいプーチンはすぐに仕上がった。でも、孫の遺骨を抱く女性の表情は、何度も描き直しましたね」
 飽くなき文学への思いは自叙伝『愚か者の夢追い半生記』として幻冬舎から23年5月31日に出版された。

 「結婚60年、会社創業してから56年、今日まで幾多の苦難はあったけれどもつつがなく過ごせたのは、妻光恵の支えがあってのおかげです(笑)」

 著書からは、苦難を乗り越えた力強さと温かさが伝わってくる。

雪山さんの出版記念会で腕を振るい参加者たちと歓談する大吉平造さん

郷土出身者らの心のよりどころ
恵比寿で居酒屋経営
大吉平造(おおよしへいぞう)さん(87) 徳之島・天城町出身

 渋谷区恵比寿駅から程近い場所で「居酒屋大吉」を経営している。このたび、同郷の雪山渥美さんを囲む出版記念のお祝いをした。

 「本土復帰の翌年、1954(昭和29)年に、手こぎ舟で36時間かけ鹿児島へ渡り、その後特急で東京まで30時間だったかな。おじいちゃんおばあちゃんが、今生の別れと涙で見送ってくれたのが、今でも思い出されますね」

 上京後、貿易会社を経て、大学(法政大)に進学するもアルバイトに明け暮れる。

 「仕送りも全くなく昼は学業、夜は銀座で喫茶店のバイトの毎日だった。新聞配達もしながら卒業して、トヨタ自動車に勤務したのです。給料を歩合にしてもらい、当時普通1万3500円だったのが10万円もらっていたかな。32歳までいて、その後板橋で『南海自動車』(整備工場)を立ち上げたんです。ところが、そこが区画整理により5年で辞めることになったんです」

 その後、タクシーの運転手に。恵比寿に縁ができて今の店を始めることに。

 「昼食を取るため立ち寄った『白十字』という喫茶店のマスターと意気投合して、恵比寿に通うようになった。隣にあった『恵比寿苑』という中華料理店にもよく行ったね。当時恵比寿のボウリング場近くには、全日本プロレスの練習場がありましてね。ジャンボ鶴田とか来てたよ。その頃の恵比寿には、何もなくてね。そんなこともあって昭和51年に『居酒屋大吉』をつくったんです」

 会社員の胃袋をわしづかみ。郷土出身者らの心のよりどころに。
「自慢のメニュー? 全部だね。油そーめん、チャンプルーは、田舎で食べた味を僕なりにアレンジしています。皆さんに喜んでもらってるんじゃないかな。コロナ禍で一時は、閉店も考えたほどだったけれど、持ち直した。だって島育ちの根性があるから(笑)」

 店内のあちこちに張られている、島関係のライブ情報。

 「お笑い芸人、歌手たちのチラシ。空いているならどこでも張っていいんです。ここを支えてもらっているし、支え合ってもらえればいいから。90近くなってこうして頑張っていられるのは、島に縁のある人たちのおかげだしね」

 大吉さんがサンシンで熱唱する写真が、多くのチラシに囲われるよう貼られている。

東京沖洲会、東京奄美会記念誌を前に思い出を語る日置さん

郷友会で初の女性会長
東京奄美会女性部長としても奮闘
日置節子(ひおきせつこ)さん(85) 沖永良部・和泊町出身

 古里で教師に。結婚、上京後は大学の職員として奮闘。

 「1958(昭和33)年に、進学のため約5日掛けて上京。その後、教員として和泊中学校へ4年間赴任、家庭科と保健体育を教えました。あの頃は、700人以上の生徒がいたと思います。それはにぎやかでした。たくさんの教え子がおりますが、故保岡興治代議士の芳枝夫人もその一人です。64年に結婚して再上京、その後は母校の日本女子大へ管理栄養士の職員に。あの頃は学生運動も激しかったけれど、カロリー計算をして、学生の食事の三食の献立作りが主な仕事でした。やりがいはありました。35年間、われながらよく務めたと思いますね」

 郷友会では初の女性会長。東京奄美会女性部長としても奮闘。

 「受験で上京、知り合いも少なかった頃、東京沖洲会総会で島の皆さまにお会いし、踊り歌った楽しい思い出は今も忘れません。とても大事にしてもらいましたので、今度は恩返しをと2005年に会長に就任しました。郷友会としては初だったと記憶しております」

 満員の参加者に感激。「えらぶゆり」の舞う舞台に感動。

 「東京奄美会では2代目の女性部長に。100周年では東京国際フォーラムが5500人の奄美関係者で満員に。和泊町は『えらぶゆり』を町の花として育て100年、東京奄美会の歴史とともに歩んできた『ゆり』に感謝し、先人たちをたたえて、東京近県在住の女性100人が和泊町内の婦人部から拝借した『えらぶゆり』の浴衣で踊りました。あの舞台は忘れられません。壮観でとても感動的でしたね」

 東京沖洲会、東京和泊校区会校友会などで顧問。会合には欠かさず出席。

 「かれこれ50年以上郷友会には関わってきましたね。食べたり、スポーツが大好きですので欠席はしません。西郷さん関連の行事もそうです。だって最初に流されたのが、沖永良部ですからね。夢?今更(笑)。でももしかなうなら、平成18年に亡くなった主人(輝仁さん)と大好きなゴルフをしたいですね。雪山さん、大吉さん、よく存じ上げております。写真あまり好きじゃないんです。あまり大きく使わないでくださいね」

 和泊の青空の下で教え子に注がれただろう、優しいまなざしがあった。