復帰直前、公務の引き継ぎ示す

復帰に伴う公務の引き継ぎのため発行された祖父のパスポートを手にする矢野直志さん

渡航目的が本人によって記されたパスポート

鹿地裁事務官に発行のパスポート存在
12月25日前提に準備か

 1946(昭和21)年の「二・二宣言」以降、奄美群島は本土から行政分離され、米軍政府の統治下となったが、53年(同28)年8月8日の「ダレス声明」により奄美返還が明らかにされた。悲願の復帰実現に向けて期待が高まり、郡民大会や断食祈願大会などが開催された中、12月25日の日本復帰直前に行われた公務の引き継ぎを示す資料が見つかった。奄美大島への渡航のために鹿児島地方裁判所事務官に発行された身分証明書(パスポート)で、「昭和28年12月12日」の日付がある。

 当時の吉田茂内閣総理大臣名でパスポートの発行を受けたのは矢野篤美(あつみ)さん=故人=。矢野さんの孫にあたる矢野直志(ちかし)さん(32)が所持している。直志さんは鹿児島大学病院の内科医で、月1回程度は県立大島病院に勤務する。

 直志さんの実家は宮崎県都城市にあるが、鹿大病院に勤務することになり、鹿児島市内にある空き家になっていた祖父母(篤美さん夫婦)の自宅に転居。遺品整理中に保管されていたパスポートを見つけた。「祖父が亡くなったのは10年ほど前。祖父と一緒に暮らしたことはなく、私がまだ若く祖父も高齢だったこともあり、祖父がどのような仕事をしていたのか聞いたこともなかった」と直志さん。篤美さんは1918(大正7)年生まれで、90歳代で亡くなったという。

 70年前に発行されたパスポートは保存状態が良好。「日本政府 総理府」と記された表紙を開くと、「公用」の印があり、篤美さんの筆跡で「奄美大島の復帰に伴う事務引継のため」と渡航目的が書かれている。一緒に保管されていた荷札や乗船した船(金十丸)の旅客携帯品積出証などから、篤美さんは12月16日に鹿児島港を出港、名瀬港には翌17日に到着している。荷物の預かり証などから篤美さんが奄美大島に滞在したのは復帰後半月(翌年の1月中旬)ほどまでとみられている。米軍政府下に通用した紙幣(軍票)、船の写真付きの「日本―琉球航路 若草丸就航」の記念品も保管され、当時の歴史を伝える。

 米軍政府統治下時代の資料を収集している奄美市立奄美博物館の喜友名(きゆな)正弥学芸員は「島内から日本本土への渡航を示すパスポートが収集されているが、パスポート自体資料として少ない。今回の資料は日本への復帰を前提に、それに伴う手続きなど仕事の状況が分かり、復帰直前の日本本土と奄美の関わりを知ることができる」と指摘する。

 奄美群島の日本復帰運動伝承へ歴史検証に取り組む花井恒三さん(75)は「復帰の年の前年には日本政府の機関である南方連絡事務所が奄美群島にも設置(名瀬日本政府南方連絡事務所出張所)されるなど国や県が再び関わるようになるが、今回の資料は12月25日の復帰を前提に、復帰に向けて公務の引き継ぎ(米軍政府下から日本政府下へ)が行われたことを示すもの。時代をはっきりと証明する資料であり、復帰70周年を迎えた奄美群島へのプレゼントとなった」と喜ぶ。花井さんは「復帰の日は島内にはなかなか情報が入らなかったが、国においては12月25日を奄美群島日本復帰の『施行日』と捉え早くから動いていたのではないか。当時の公務の状況を探る物証となった」と語り、こうした復帰に関係する遺品を島内外関わらず掘り起こす取り組みを呼び掛けている。