楠田哲久さん「70周年に学ぶ」講演

米軍統治下の生活と復帰運動の意義を詳細に語った楠田哲久さん(24日、奄美川商ホール会議室)

復帰運動の意義を子ども達に
父・豊春氏「泉芳朗は胆力の人」

 奄美群島日本復帰70周年記念特別講演会(奄美博物館主催)の第3弾は、「日本復帰記念の日」前日の24日、奄美川商ホール(奄美文化センター)2階会議室であった。泉芳朗先生を偲(しの)ぶ会会長の楠田哲久さん(76)が「復帰70周年に学ぶ」と題して登壇。戦後、米軍統治下に置かれた奄美群島が復帰に至る歴史と、泉の功績を詳細に語った。戦後の奄美群島各地の貧しい生活を撮った写真が映されると目を潤ませる人もいた。約40人が会場を埋めた。

 楠田さんの父・豊春氏(2019年10月死去)は、泉が旧名瀬市長を務めた1952年9月から辞職した54年1月まで秘書を務めた。59年4月に泉が死去し、「偲ぶ会」は豊春氏によって設立され、哲久さんが引き継いだ。

 講演は、「日本復帰の歌」を参加者全員で歌い始まった。米公文書館の公開資料にあったという徳之島にブルドーザーが大挙して上陸するシーン、龍郷町赤尾木に爆弾が投下され丸く白くなった跡など写真を次々と説明した。
 戦後、窓もなく吹きさらし状態の小学校などの様子も紹介した。

 楠田さんは「米軍は奄美各地の詳細を調査していた。瀬戸内町古仁屋は潜水艦から集落ごとの写真を撮っている」と資料を分析した。

 1950年から始まった署名運動、翌51年の復帰協議会結成に至る流れを、「奄美人は島に約20万人、本土に約20万人いた。東京には、奄美出身の行政官が多く、署名運動を率いた」と、群島内の運動と関東・関西からの運動が実を結び、米政府を動かしたと続けた。

 幼い頃、父・豊春氏は泉について「胆力のある人」と評していたという。米軍高官に信念を持って対応した話を何度も聞かされたという。

 楠田さんは、群島内の学校などで復帰当時の奄美群島の生活や、復帰運動の意義を伝える講演を続けている。歴史を受け継ぐ子どもたちに向けて分かりやすく伝える努力が必要だと話した。

 ウクライナでの戦争などを例に、「国境が変わる要因は戦争と平和的な外交交渉の二つだけ」と伝え、EEZ(排他的経済水域)の地図などを示し、「日本政府は島を守る対策を始めている」と説明していると結んだ。