復帰運動伝承 感じた奄美と沖縄の違い

喜友名正弥さんが学芸員として勤める奄美博物館には復帰運動関係資料が常設されている

「沖縄戦の悲劇、戦争の悲惨も伝えたい」
宜野湾市出身 奄美博物館学芸員・喜友名さん

奄美群島が日本に復帰して70年の大きな節目だった昨年、復帰運動を調査研究してきた伝承団体・郷土史家などが語り部として次の世代に伝える取り組みを重ねた。奄美市立奄美博物館(市教育委員会文化財課)学芸員の喜友名正弥(きゆなまさや)さん(29)は、同館での復帰70周年企画展開催に関わると同時に、学校での講話も行った。沖縄県宜野湾市出身の喜友名さん。自身の体験から復帰運動に関する奄美と沖縄の違いを感じながら、復帰の前段階の戦争を伝えることにも取り組んだ。

喜友名さんは琉球大学法文学部卒業後、奄美市役所に入庁。大学では考古学を学んだ。実家は米軍普天間基地の返還地にあり、小学3年生になって引っ越すまで、普天間飛行場のすぐ近くの学校に通ったという。米軍機の離発着に伴う騒音は「テレビの音が聞こえないほどだった」が、事故の危険と隣り合わせを実感する事態にも遭遇した。2004年に起きた沖縄国際大学への普天間基地所属ヘリの墜落だ。「その時、兄が沖国大の学生で、墜落事故時、大学にいた。事故を知って不安から大学に駆け付けた。兄は無事だったが、校舎の壁がすごく焦げていたのを覚えている」
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敗戦後、当時のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による覚書として宣言された「二・二宣言」により、北緯30度以南の南西諸島は小笠原諸島とともに日本から行政分離され、米軍政府の統治下に置かれた。喜友名さんは「市役所に採用され、奄美に来るまで沖縄同様、奄美も米軍統治下に置かれたということを知らなかった」と振り返る。沖縄の場合、米軍基地の存在や米国人の姿・暮らしが常に身近にあったからかもしれない。「基地の存在だけでなく沖縄はかなりアメリカ文化の影響を受けている。食事もそう。外食が盛んで、ファストフード店が多い。奄美はそうした環境にない。統治期間の差もあるかもしれない。奄美は8年間、沖縄は1972年まで27年間も続いた」

米軍統治から日本への復帰。喜友名さんは、その記憶の差も感じた。「昨年で70年が経過した奄美は当時を覚えている人が少ない。伝承する取り組みが重要になっている。沖縄は50年余り前。私の父親(60歳代前半)は中学生の頃に復帰した。復帰から6年後『730運動』(車の通行が右側から左側へ)や『コザ暴動』のことも覚えている」。奄美は米軍統治・復帰運動を実際に体験した人、その様子を覚えている人々が少なくなり、復帰関連資料を収集・展示する奄美博物館に勤務していて危機感があるという。
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さらに衝撃を受けたことがある。戦争に関する継承だ。「沖縄では高校ぐらいまで『沖縄戦』(国内唯一の地上戦)のことを郷土学習の一環としてかなり学ぶ。関係する書籍、関係施設の見学、体験者から直接話を聞くこともある。『自分の祖父母から聞きましょう』という授業があるほど。一方で復帰運動についての学習はほとんどなかった。ところが奄美は逆。復帰運動のことは学習が繰り返されているが、隣の島で起きた沖縄戦の悲劇、戦争の恐怖や悲惨さを子どもたちが十分に学んでいるだろうか」

奄美にも戦跡がある。瀬戸内町には近代に造られた軍事関連施設が数多く残っており、確認されている52の近代遺跡のうち3遺跡が国指定史跡になった。こうした軍事施設は戦争を伝えると同時に平和を考える場にもなる。喜友名さんは昨年、学校で講話を行った際、こうした戦跡の存在、実際に訪れたことがあるかを聞いたところ、知らない子どもたちが多かったという。

そこで昨年手掛けた復帰企画展では、戦争に関する資料も展示した。「復帰運動だけでもよかったが、それ以前の戦争により敗戦し米軍に統治された、という歴史の流れを伝えたかった。復帰までの前段階を知ってほしかった」。子どもの頃から沖縄戦を学んできた体験から喜友名さんは奄美にある戦跡の存在に関心を示す。「昨年の70周年で復帰運動を体感できる場が求められたように戦争を体感できる場が必要ではないか。平和教育の在り方でも考えていきたい」。来年、2025年は戦後80年を迎える。