「日米共同訓練」取材後記

日米共同訓練の取材での一コマ。現職の自衛官を挟み、訓練反対派(左)と旭日旗をあしらったマスクをする地元住民(右)が時折談笑を交えながら言葉を交わしていた(11日、沖永良部島の笠石海浜公園広場での自衛隊装備品展示前で)

「あなたの意見には反対だが」
自衛官の命は誰が守る

 「私はあなたの意見には反対する。だが、あなたがその意見を主張する権利は命を懸けて守る」――。私が新聞記者という報道の職に就いてから常に念頭に置いている、仏の哲学者ヴォルテールの民主主義の大原則、「言論の自由」を表した言葉だが、特に安全保障関連の取材を通したさまざまな主張を前にする都度、この言葉が勝手かもしれない「使命感」とともに頭をよぎる。そして、他者の主張を受け入れ精査を続けてきたことで、自衛隊こそが、この国で最も国民同士による意見交換、議論を要する組織なのではないかと、取材先の沖永良部島で気付かされた。国を守るためであるとともに、自衛官の命を守るために。

 3月10、11日と沖永良部島で初めて行われた日米共同訓練(アイアン・フィスト24)の取材のため、フェリーで現地入りしたのは前日の9日。この日は、訓練に反対する市民団体が知名町役場前で集会を開くとのことで開始30分前に赴き、代表者らに反対趣旨を尋ねた。要約すると、「同盟国米国の軍事戦略に自衛隊は巻き込まれ、不要な戦争に参戦させられる」「琉球弧の軍備はハワイなど米国領土の安全保障、盾として日本は利用されている」だった。

 そして12日の帰島後、反対派が論拠としている日本国憲法(9条)と集団的自衛権を容認した安保法制(存立危機事態など明記)の各関連文献に改めて目を通した、主張の正当性を確認するための「疑念」とともに。結果、反対派の主張に「確実」に反証できる言葉は見つけられず、解釈ありきの法規を理由に、隊員の「命」が本来の任務とは異なる意味で、危険な状態にさらされる可能性に気付かされた。 

 国が有事を想定した自衛隊施設の整備を進めるならば、その説明責任を十二分に果たすべきであり、合わせて行政任せの住民保護(国民保護計画)も本来、国が主導すべき事項のはずだが、それ以前に自衛官の「正しい」命の保証、そのための憲法と法制の矛盾の解消こそが、まずは必要ではないかと考えた。

 全ての自衛官は「国民の負託に応える」として「事に臨んでは危険を顧みず」と自らの命を懸け、国民の命を救うと入隊時に宣誓するが、そんな隊員たちの命を守れるのは、唯一、その負託をしたであろうわれわれ国民なのではないのかという気付きを、訓練反対派の主張から得られた。

 内閣総理大臣や国務大臣、裁判官などと並ぶ「特別職」国家公務員の自衛官との正しい付き合い方は、親しみよりも「信頼関係」の構築にあり、敷居が低い開かれた自衛隊などを求める前に、まず、彼らが現在進行形で危険な状況に置かれていることを、負託した国民側が理解に努めることが先ではないか。

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 安保関連の報道も他分野同様、事実(5W1H)を伝えることが大前提だが、全般的に客観性、中立という名の下、「価値の相対化」(記者が想定する反対、賛成意見を聞き取り、住民の声として並べる)や「論点ずらし」(平時と有事の混同や特定の歴史、出来事を併載し主記事の論拠、担保とする)、住民数人の意見を島民全体の民意であるかのように印象付ける「主語の肥大化」が多用される傾向がある。だが、そんな客観を装った実は主観、主張に基づく記事ほど、もれなく読者にその意図が伝わっていることを、安保担当を名乗る記者ならば、その自覚くらいはすべきと考える(国際情勢を無視した国内の防衛省・自衛隊への「過度」な取材、動向分析も、ある種の意図を持った報道と考える)。

 ならば、真の公平公正な報道とはそんな客観、中立を装う(主張を隠す)ことではなく、初めから「あなたと私は意見が異なるかもしれない」と表明しつつ、「しかし、あなたが主張する権利は命を懸けて守る」とする民主主義の大原則を守ることこそが、報道機関の社会的使命となるのではないか。

 今回、初めて訪れた沖永良部島での取材を通して自衛官たちの命の安全保証、報道の在り方について、このような考えを巡らせた。

(西直人)