【鹿児島】1972年、25歳で瀬戸内町議からスタートし、県議6期、衆院議員を3期、約50年間にわたる政治家生活だった。叙勲は「大変光栄である」と感想を話し、「今振り返れば、お世話になった奄美の人たち一人一人の思い出が浮かび、感謝の気持ちが湧いてくる」。
町政、県政、国政と舞台は変わったが、一貫してこだわったのは「地方自治」だった。町議の後に故・保岡興治氏の秘書として政治のイロハを学び、91年から県議へ。「国から地方へ、分権改革が進められた時代」だった。国と地方は上下から対等の関係に。国からの予算はひもづけの補助金から地方の裁量で使える交付金へと変わった。
地方政治は首長と議会の二元代表制をとっているが、住民の目線はややもすれば首長に向きがちだ。「住民の意思を決定するのが議会」という信念の下、政策提言委員会を設立するなど住民目線の議会運営を目指した。
衆院議員時代は、奄振延長と奄美の世界自然遺産登録に尽力した。奄振に関して思い出深いのは海産物の沖縄移出に対して交付金をつけたこと。本土と奄美の格差を是正するために、人やモノの移送にかかるコストを奄振で補助することは以前から実施されていた。奄美の海産物も鹿児島本土に輸送する際は交付金が活用できたが「鹿児島に持っていっても売れない」という現実があった。
ソデイカ、ヤコウガイ、グルクン、アカウルメ…これらの海産物の消費量は、気候、風土、食生活が共通する沖縄の方が多い。ヤコウガイの刺し身、グルクンの唐揚げ…本土の料理店ではあまり見かけないが、沖縄の居酒屋に足を運べば必ず出てくる。奄美の漁協関係者の声を拾い、ソデイカに始まって今では農林水産物全てに交付金が活用できるようになった。「その先べんをつけることができた」と喜ぶ。
これまで鹿児島市を拠点に、定期的に奄美に足を運んでいたが、「そろそろ奄美に生活の拠点を移す」ことを考えている。「島の生活は楽しい」。故郷・奄美に帰り、後進の活躍を見守る生活を楽しみにしている。