成長(中)

のぞみ園での療育が転機になり、親子はともに成長を刻んでいる

療育で状態落ち着き

 「爽太くんのためにも親子で療育センターに通った方がいい」――。静岡での保健師の言葉が頭をよぎりながらも、母子生活となり自らの手で収入を得て暮らしていくため、真由美さんは働くことを優先した。歯科助手として就職。爽太くんを託児所に預けた。

 最初の日、保育士に預けようとした瞬間、爽太くんは体をそり激しく嫌がり、「ギャー」という悲鳴を上げながら託児所入口の手すりをつかんだ。泣き叫ぶ爽太くん。真由美さんは後ろ髪を引かれる思いで仕事に向かった。2日目。乗せた自転車の上で爽太くんは暴れ続け、託児所に着くと再び悲鳴を上げた。そして3日目の朝。いつものように嫌がる爽太くんを預け、真由美さんは仕事に向かった。胸騒ぎがした。真由美さんは自転車を止め、「このままでいいのか?本当にこれでいいのだろうか?」と自問自答しながら託児所の方へ引き返した。

 爽太くんを見た瞬間、真由美さんは我が目を疑った。爽太くんのおでこは、内出血で腫れ上がっていたのだ。真由美さんは託児所側に説明を求めた。「爽太くんは(床におでこをぶつけるゴンゴンを)やめない。その行為が痛いということを覚えさせた方が改善につながると思った」。

 真由美さんは託児所側の説明に戸惑いを感じる一方で、託児所に預けるという選択をした自分自身を責めた。「とても痛いのにも関わらずゴンゴンをやめないのは、よほど嫌だ(託児所に預けられるのが)と私に伝えたかったのだろう。それなのに息子の思いに応えることなく預ける選択をしてしまった。ごめんね」。

 爽太くんが慣れることができなかった託児所だが、親子の針路に重要な役割を果たす。爽太くんの発達のために、真由美さんに児童相談所での相談を勧めたのだ。紹介を受けて真由美さんは爽太くんとともに児童相談所へ向かった。児相の職員は、「のぞみ園」を紹介した。これが爽太くんにとって大きな転機となった。

 ▽「大丈夫ですよ」

 児相からの連絡により、のぞみ園の職員との面談がかなった。到着すると、その日の朝の託児所のことを思い出したのか、爽太くんは建物の中に入ることを嫌がった。そんな爽太くんへの職員の接し方。真由美さんは鮮明に記憶している。

 このとき対応した保育士が大山周子さんだ。開設から9年目、2005年の頃。母子に「大丈夫ですよ」と声をかけ、真由美さんには「よくここに来てくれましたね」と話しながら迎えた大山さんだが、こぶのように腫れ上がった爽太くんのおでこの様子を見て驚き、「どうしたのー」と駆け寄った。

 「先生は慣れたように対応してくださった。『一番苦しいのは僕(息子)なんです』と言ってくれた先生の言葉に、私は光が見えた気がした。『ここなら大丈夫かもしれない』と思い、のぞみ園に通うことを決めた」

 のぞみ園利用を決めた真由美さん。実現するには一つ問題があった。爽太くんと一緒に通う母子通園ができるかだ。生活のために真由美さんは働かなければならない。真由美さんの母親に事情を説明し、理解により爽太くんはおばあちゃんと共に通園することになった。

 ▽落ち着き

 2歳11カ月から始まったのぞみ園での療育。爽太くんは小学校入学後も6年生まで利用(週1回土曜日の学童受け入れ)、通算10年の利用になるが、最初の2週間で爽太くんの状態は落ち着き始めたという。

 大山さんは振り返る。「爽太がゴンゴンをしようとすると抱きかかえ、『これがしたかったの』『痛いよ痛いよ』と声をかけて止めるとともに、違うもので自分の気持ちを表現できるように働きかけた。取り入れたのが、爽太が集中できる好きな物。おもちゃの車を並べたり、砂を触っての遊びもやりたがっていたことから『触ってごらん』と勧めた」。自分が集中できるものとの出会い。それによって爽太くんはゴンゴンという行為をしなくなった。

 もう一つ、大山さんらが改善に取り組んだのが偏食だ。「1歳で離乳し、なんでも食べていたのに、2歳になってから偏食がひどくなった。白いご飯とフライドポテトばかり食べていた」(真由美さん)。

 のぞみ園では給食を取り入れていた。大山さんら保育士は、時間がかかっても根気強く爽太くんの食事に付き合った。まずその日の献立で出された食べ物を爽太くんに見てもらい、においを嗅いでもらい、それを経て口に運んだ。最初は抵抗を示していた爽太くん。口についただけで食べ物を吐き出すこともあったという。それでも保育士らは見てもらい、嗅いでもらい、そして口へを繰り返した。徐々に給食に関心を示すようになり、やがて爽太くんは給食によって偏食が解消された。

 落ち着くことは言葉の発達にもつながった。発するようになったのはやはり好きな物、興味がある乗り物の名前だ。船のことを「ふうね、ふうね」と言葉に出した。5歳になると名瀬港に接岸する定期船の特徴を説明するまでになった。「なかなかしゃべれなかったのに、乗り物の呼び名から始まり、『この船に乗りたい』『このバスは○○行き』など自分が好きなことを言葉で表現できるようになった」(真由美さん)。

 言葉での発表では、のぞみ園での卒園式で爽太くんが二十歳になったときに何をしたいのかの発表を大山さんは覚えている。「一人で船に乗って東京へ」。船員になりたいという夢はこの頃で育まれていたのかもしれない。

 卒園後は居住地内にある奄美小学校へ。同じ学校内でも爽太くんは他の児童とは異なる別の学級で授業を受けた。特別支援教育の始まりだが、授業の場は完全に切り離されるのではなく、他の児童と交流しながら授業を受ける場も設けられている。これは現在の中学校でも同様だ。