コロナ禍の夏に考える 隔離の歴史 =下=

差別、偏見、排除のない社会へハンセン病の歴史研究、ハンセン病文庫友の会活動などに取り組む森山さん

差別や偏見、排除 正しい知識不可欠

 奄美救らい協会が取り組んだ奄美大島に療養所をつくる運動。協会結成から3年後の1940(昭和15)年、具体的に動き出す。当時の厚生省が鹿児島県知事に療養所の設置を命じた。奄美群島唯一の国立療養所、奄美和光園の建設だ。

 ところが建設計画は壁にぶち当たる。建設予定地の住民による反対運動。激化した反対運動は翌年まで続き、予定地の土地が買収され、療養所の建設が始まったのは41年10月、太平洋戦争勃発の年まで持ち越された。曲折の末、和光園は2年後の43年4月、開園した。

 戦時中の開園、当然ながら戦禍に直面する。終戦の年の45(昭和20)年の園の様子について、年史にはこんな記載がある。「3月=空襲激しく食糧事情ひっ迫し、患者離散」「4月=退避生活」「6月=松寮5号に焼夷弾落下火災」。住民が暮らす居住地などを焼け野原にするため米軍が用いた焼夷弾による攻撃は、療養所にも及び被害を受けたことが記録されている。

 日本の敗戦により奄美群島は沖縄とともに米軍政府下に統治され、和光園も46年から日本復帰の53年まで軍政下に置かれた。実際に園を管理したのは軍政府だが、当時の和光園の実態について象徴的な記載が48(昭和23)年の年史にある。「5月=患者の逃走を防止する目的で境界に有刺鉄線の柵が張りめぐらされた」。

 ▽出られない

 「逃走防止を目的としたというが、おぞましい有刺鉄線で作られた鉄条網が張りめぐらされた施設は、社会から断絶し、一度入所すると二度と出られないという隔離政策そのものを表したのではないか。園周辺の人々には異様で恐怖の建物に映ったことだろう」。森山さんが和光園に入所したのは、20歳のときの68(昭和43)年7月だが、その当時でも鉄条網の名残のような鉄の刺が残っていたという。

 宇検村出身の森山さん。生まれてすぐに一家で名瀬に移住。両親は大島紬を生業とし、学校卒業後、森山さん自身も関わったものの、一番長く従事したのが建築関係の仕事。いつものように現場に出掛けたときだった。落ちていた釘を踏んでも、痛いという感覚がない。周囲の勧めもあり医療機関を受診したが、原因はわからず。最終的に鹿児島大学病院で診てもらったところ、こう告げられた。「島に(ハンセン病の)療養所がある。そこでゆっくりと治療を受けなさい」。

 大学病院の医師の紹介状を手に森山さんは島に戻り、すぐに和光園を訪ねた。診察後に病棟に案内され、即入院だったという。入院期間は1年に及び、その後は一般舎へ。

 「入院するまではかなり体が弱っていたが、治療によりだいぶ元気になった。そろそろ退院できると考えていたら、『ここはハンセン病療養所だから、いったん入ったら出られない』と先輩から聞かされた。『そんなばかなことがあるものか』と反発したが、いろんな本を読み勉強したことで、退所できないのは『らい予防法』のせいだと分かった。そこからさらに勉強し、差別や人権に関する本もかなり読んだ。一生懸命勉強し、療養所の職員にも対等にモノが言えるようになろうと思った」。和光園だけでなく全国にある国立療養所内には火葬場や納骨堂もある。死後も園内に管理するような施設は、他の医療福祉施設に存在するだろうか。

 ▽誤り

 二度と出られない、その根拠となったのは森山さんが指摘するように「らい予防法」だ。特効薬プロミンの開発以降、国際的には外来治療への切り替えが進められたのに日本では「患者隔離」が保持された。

 「らい予防法」が公布されたのは53年。この法律は、戦前の「癩予防法」の精神を受け継ぎ、強制隔離、継続強制入所、従業禁止、汚染場所の消毒、外出禁止、所長の秩序維持規定など人権を侵害する内容が盛り込まれており、治療で治った後の退所規定もなかった。同法律が廃止されたのは96(平成8)年。つい最近であり、実に40年以上にもわたって「絶対的隔離」を正当化するために活用され、入所者が療養所を出て社会復帰を果たすという権利を奪った。

 森山さんは語る。「差別や偏見、そして隔離によりハンセン病とコロナ(新型コロナウイルス)を同一視するような傾向がある。同じ感染症だが、ハンセン病とコロナは異なる。ハンセン病は早期発見し早期治療すれば治る。顔の変形などにより、こわい病気という認識を生んでいるが、早期治療なら後遺症も残らない。コロナのように死に至ることはない。勉強不足が差別や偏見を生むだけに、誤った認識を持たないためにも正しい知識を身につけてほしい」。

 正しい知識を願い森山さんの蔵書の寄贈は200冊以上に及び、寄贈先の県立奄美図書館には「ハンセン病文庫」が開設され、市民に開放されている。「今後も寄贈を続けたい。多くの市民が本を手に取り、読んでもらいたい。このところ盛んな入所者と子ども達の交流も大事なことだと思う。だが、それ以上に本を通して知ることを教育の場でも生かせないだろうか」と森山さん。

 再び、寄贈された蔵書の一つ『ハンセン病―排除・差別・隔離の歴史』の一文を紹介しよう。「ハンセン病者の歴史を考えていると、専門家集団のなかでは、『すべての患者』をなくせば、ハンセン病はなくなると考えていたのではないかとの疑いが、心にしばしば、あらわれてくる、こうした筆者の疑いは、猜疑心の深さゆえと信じたい」「だからこそ、病の原因となる細菌やウイルスの撲滅をはかるという目的の大切さ・重要さは疑わないが、それだからこそ、病者・患者の『生身の思い』を受けとめることのできる専門家集団であってほしいとの思いが込み上げてくる」。

 当事者の思いを正面から受けとめる。これによってこそ隔離の歴史は教訓となる。

(徳島一蔵)